港ヨコハマ 私の風土記

目次

 港ヨコハマ 私の風土記 (1)

                              高校12期 野村 邦男
                            

港ヨコハマの風景
港ヨコハマの風景

 港の見える丘公園からは横浜の港湾のほぼ全景を眺めることができる。 中央に大桟橋、新港埠頭、左には港みらいエリアに建つランドマークタワー、右側に目を移すと湾を跨ぐベイブリッジ、山下埠頭のコンテナヤード、そして湾の遠方には京浜工業地帯の工場群を一望することができる。
幕末1854年マシュー・ペリー提督が率いる黒船が来航し日米和親条約を結んだ横浜村は、戸数が100戸にも満たない半農半漁の寒村であった。
現在、港ヨコハマは世界を結ぶ国際港湾都市であり、首都東京に次ぐ人口370万人の大都市となっている。
横浜が開港して以来160年余りであるが、日本の2千年を超える歴史の中で、これほど短い年月の間に大きく変貌をとげた地域は他にはないと思われる。
また、この歳月は1942年生まれの私にとって倍ほどを遡った歴史であり、身近な風土でもある。
横浜に生まれ育った者の風土記として、港ヨコハマの変貌の歴史を自分の体験と記憶を重ねながら綴ることにしました。

玉楠の木が見ていた黒船と文明開化
  ハイネの絵 右端が玉楠         開港記念館の玉楠
tamakusu-ヨコハマ上陸 たまくす              
 大桟橋に向う道筋に開港資料館があり、その中庭に大きな玉楠(タマクス)の木が艶やかな緑の葉を茂らせている。
1854年(嘉永七年)ペリー艦隊が来航し、日米和親条約が結ばれたのが武蔵国横浜村である。ペリーに随行した画家ハイネが、浜辺に建てられた臨時の応接所での徳川幕府の役人とペリー提督及び大勢の将兵が立ち並んでいる状景を描いている。その絵の右端に水神の祠と玉楠の木が描かれている。
この玉楠の木は黒船来航から、開港、明治維新、文明開化、関東大震災、太平洋戦争、戦後の復興、現在の港ヨコハマに至る変貌を見てきた生き証人のような存在である。
小学校でよく歌わされた横浜市歌の作詞は森鴎外であるが、その歌詞に「むかし思えばとま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ」とあり、開港前の横浜は何もない寂しい寒村であったことが詠われている。
1858年(安政五年)日米修好通商条約締結に伴い開港が決定し、横浜、神戸、長崎、新潟、函館の5港が世界に開かれた。
幕府は急遽、横浜村に東波止場と西波止場を建造し、運上所(税関)を設置し外国人が営業・居住するエリアを派大岡川と堀川で囲み居留地として整備し、要所に関所が設けられ以後関内と呼ばれるようになった。
海岸通り、日本大通り、馬車道などには欧米の商館が建ち並び、日本各地から移住してきた商人の店舗、幕府役人の住居などが作られ急速に賑わいのある町に変貌した。
これまでに見たこともない建築物、家具、服飾、食べ物、乗り物などが海外から瞬く間に入ってきて、いわゆる文明開化がこの地から広がった。
徳川幕府が崩壊して明治新政府が樹立され、都が京都から遷都され東京が政治経済の中心となった。そして首都東京に近い横浜が外国との交易、人々の往来の玄関口として飛躍的に発展することになる。
明治維新後の変革と世界の激動の渦に揉まれながらも国際都市として成長するが、関東大震災の大規模災害と太平洋戦争末期の空襲によって壊滅的な被害を受けた。その後、進駐軍の占領時期を経て今日あるような復興を遂げて港湾都市に発展した。
玉楠の木は災禍によって二度も焼けてしまうという損傷を受けながらも自力再生して、横浜が劇的に変貌する姿を現在も見続けている。

波止場から世界に船出した若き人々
大桟橋の先端に立って港の状景を眺めていると、開港したばかりのこの波止場から夢と志を持った若い人達が、世界に向って船出した状景が目に浮かんでくる。
1871年、明治維新を成し遂げた新政府は欧米の政治経済、法律、技術、文化などを修

岩倉使節団 (002)
岩倉使節団

得するために、岩倉具視を全権大使として遣米欧使節団総勢107名をこの波止場から
送り出している。
この使節団の中に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などがいて、帰国後に新しい近代国家を建設する重要な働きをすることになる。
しかし、こうした歴史上著名な人物達の他に、欧米留学のために随行する43名もの若い人たちがいた。
明治新政府は国が発展するためには欧米の文化、文明を早く取り入れることが必要であり、将来の日本の国づくりためには若い人々の教育を重要政策の根幹に置いていたことが窺える。
更に驚くことにこの留学生達の中に幼い少女たちが含まれていた。一人は後に津田塾大学を創設する満6歳の津田梅子であり、もう一人は後年陸軍元帥大山巌の妻となる満11歳の山川捨松である。

津田梅子  渡米直後6歳の梅子

渡米直後6歳の梅子
津田梅子 (2)

 津田梅子は佐倉藩士の娘であり、父親のすすめで留学に応募して随行員となる。
6歳という幼い女児が、言葉も生活様式も風習もまったくわからない異国の地に親元を離れて行くということは大変な覚悟が必要であったと思われる。不安な気持になったりホームシックにもかかったりしたことが想像される。
ワシントンの日本弁務館書記のチャールズ・ランマン夫妻に預けられ、その地で11年間初等学校と女学校に通い知識と教養を身につける。17歳で帰国し、伊藤博文の英語指導や華族女学校の英語教師などをしている。
その後再度渡米してフィラデルフィアのカレッジで英語、ラテン語、フランス語を修得し、英文学、生物学、自然科学、心理学、芸術など幅広く学んでいる。
再び日本に戻った梅子は、封建的な風習に囚われている日本の女子の啓蒙と育成のために生涯かけて尽力する。
女子英学塾(後の津田塾大学)を創立して華族・平民の別のない教育を行い、留学時の友人大山捨松、アリス・ベーコンの協力のもと自由で進歩的な女子教育を実践した。津田梅子は恵まれない女学生を自宅に預かるとか、奨学金制度を作り募金活動をするなど献身的な真の教育者であった。

山川捨松 後に結婚する大山巌

大山巌 日露戦争の満州
山川捨松

 山川捨松は会津藩家老の娘で八歳の時に戊辰戦争が勃発、子供ながら会津城に籠城して決死の戦いの一員でもあった。会津の敗戦により家族ともども苦難の生活を送っていたが、聡明で向学心の強い11歳の少女は官費留学に応募する。
捨松とは奇妙な名前であるが、異国に旅立つ娘を案じた母親が「さき」という名を改名したようである。一度捨てたと思って帰国を待つという思いが「捨松」という名前に込められているとのこと。
コネチカット州のベーコン牧師宅に寄宿して、ヴァッサー女子大学を優秀な成績で卒業している。英語、独語、仏語をマスターし、英文学、生物学、看護学、国際政治学などを学んでいる。帰国後、会津城攻略の先頭に立っていた薩摩藩士大山巌と結婚する。大山巌は日清・日露戦争で参謀総長や満州軍総司令官として勝利に導く大きな貢献を果した人物である。
捨松はその知性と教養によって、大山巌と共に列強の外交官たちとの親交を広げる役割を果たしている。また、津田梅子の支援者として女子教育に尽力し、日本赤十字社の活動にも熱心に取組んだ。
明治という時代は、戊辰戦争で敗れた賊軍の藩士の子女であっても官費でアメリカ留学を許し、若い女子にも先進的な文化文明を吸収する機会を与えている。また、かつて砲火を交えた敵味方の男女が結婚するという恩讐を超えた寛大な精神が宿っていたことに感銘する。

高橋是清

高橋是清

この波止場から船出した人物に高橋是清がいる。是清は幕府御用絵師の庶子として生まれ、仙台藩の江戸在勤の足軽の家に里子として出された。
十二歳の時に藩命により横浜へ洋学修行に行き、3年ほど開港場のアレキサンダー・シャンドという銀行家の店舗兼家屋に住み込み、掃除や給仕をしながら英語や実務を学んだ。1867年(慶応三年)大政奉還という激動の年、15歳の是清は官費でアメリカの政治経済文化を学ぶ為に、コロラド号に乗り出港した。幕末から明治の初期、足軽の子供でも勉学の機会が与えられ、海外に雄飛することが許されるという、大らかで進取に富んだ時代の風が
感じられる。
帰国後、共立学校(現開成高校)の校長となり、教え子に俳人の正岡子規、日本海開戦の参謀秋山真之がいる。まさに「坂の上の雲」に登場する人物たちである。日露戦争で戦費が底をついていたため、日銀副総裁として英国に向かい外債を公募して軍費を調達した。これによって何とかロシアに勝利することができた一つの要因と云われている。
その後、是清は日本銀行総裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任し、特に財政金融政策に精通して歴代内閣の大蔵大臣を6度も勤め日本経済の難しい舵取りに重要な役割を果たした。しかし、軍事費拡大に反対する方針を堅持したため、1936年(昭和11年)二・二六事件の際に凶弾に倒れた。
これを契機に日本は歯止めを失い、日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、悲惨な結末を迎えることになった。
横浜から船出した高橋是清は波乱万丈の生涯であったが、軍部の跋扈に抵抗した信念の人であった。

岡倉天心

岡倉天心(1)

また、この波止場から船出した人物に岡倉天心がいる。
大桟橋の近くに開港記念会館があるが、ここはかつて生糸の取引所があった場所であり、岡倉天心生誕の地でもある。
天心は開港して間がない1863年に生まれているのでハマっ子の元祖と言うことができる。父親覚右衛門は福井藩士で藩命により、この地で生糸を扱う貿易商店「石川屋」の責任者をしていた。文明開化の時代に先駆けて、天心は幼少時より英語を身につけ欧米の文化に慣れ親しんでいたことになる。
東京開成所(現東京大学)で政治学、理財学を学び、講師のアーネスト・フェノロサに師事し日本美術に開眼する。
1886年横浜から船出した23歳の天心は、フェノロサと共に欧米美術を見て回る中で日本美術の独自性と特長を深く認識する。
帰国後、東京美術学校(現東京藝術大学)を開校し初代校長となり、横山大観、下村観山、菱田春草など日本美術界を代表する英才を育成している。
また、ボストン美術館中国・日本美術部長を務め、英語版「茶の本」「日本の覚醒」などを通して広く世界に茶の精神や美術の真髄を伝えている。   
岡倉天心は日本美術の価値を国内外の人々に知らしめ啓蒙する伝道師であった。

つづく

掲載日:平成31年3月4日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ


 港ヨコハマ 私の風土記 (2)

高校12期 野村 邦男

三渓園につながる絹の道

三渓園 
  

 本牧の海辺と丘陵の間に三渓園がある。18万㎡の広大な敷地に大きな池があり、小高い丘の上には三重塔が建っている。京都をはじめ各地から移築した臨春閣、秋聴閣、月華殿など多くの重要文化財の建物が庭園に配置されている。

原三渓

原三渓1)

三渓園は、生糸貿易で財をなした実業家であり、茶人、美術品収集家でもある原三渓(富太郎)が長年かけて造園したものである。
多くの市民がこの名園を訪れ四季折々の景観を楽しんでいる。鶴翔閣と呼ばれる茅葺屋根の風情ある家屋は結婚式、茶会、俳句会などに利用されている。
開港した横浜にはアメリカ、イギリス、フランスなどの貿易商がやって来て取引を始めると共に、日本の各地からも人々が集まり商売を始めた。
商いの主体は生糸と緑茶であり、横浜から船積みする品物の大部分を占めていた。生糸貿易が増大する中で原善三郎や茂木惣右衛門などの豪商が輩出した。原善三郎の婿養子となった三渓は経営能力が優れていて、富岡製糸場をはじめ多くの製糸工場を経営し、生糸貿易を拡大した。
そして横浜興信銀行(現横浜銀行)の頭取を務め産業経済の基盤をつくり、港ヨコハマの発展に貢献した。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災による横浜の被害は特に甚大であった。市街地の建物と港湾施設の大部分が倒壊し、死者2万、焼失家屋6万の大惨事であった。
三渓は横浜市復興会の会長を務め、私財まで投入して復興に尽力をした。
一方、三渓は美術にも造詣が深く、岡倉天心との親交も厚く前田青邨、横山大観、下村観山などを援助して彼らの画業を支えた。
三渓園を早い時期から一般市民にも開放するという公共精神の持ち主であり、社会貢献にも尽力した人物であった。
こうしたことから原三渓は生前から今日に至るまで多くの市民より敬慕されている。

開港した横浜から輸出する物品としては生糸が主力であった。江戸時代から蚕を飼育し繭から生糸を紡ぐ養蚕農家が信州、甲州、上州の各地にあったが、生糸が欧米諸国に輸出されるようになると生産量が急速に増大した。
生糸の作り方も手繰りから製糸機械の導入により飛躍的に生産性が上がり、殖産興業の政策のもと、官営富岡製糸場などが操業を始めた。

富岡製糸場
富岡製糸場の全景

広範囲の地域で作られる生糸を集荷、品質管理をし、輸出する業務を担うのが生糸貿易商であった。生糸の輸出は年々増大し外貨を稼ぐ重要な品目であり、明治から昭和初期まで常に一番輸出金額の多い品目であった。
日本経済発展の原動力であり、日清・日露戦争の軍需費など国家財政を支えたとも云われている。
古代中国から中央アジア、中東、ヨーロッパに至る街道がシルクロードと呼ばれたように、生糸の生産地から横浜まで運んだ道が絹の道と呼ばれている。
岡谷、諏訪、甲府、秩父などで作られた生糸は八王子に集められ、そこから馬の背に乗せられ町田を経由して横浜港まで運ばれた。
また、富岡、高崎、前橋など上州の生糸は倉賀野河岸から利根川、江戸川を船で下り、日本橋に集められ横浜に運ばれた。
その後、生糸の輸送は横浜線や高崎線の開通とともに鉄道輸送に切り替わった。
絹の道が今でも残っている八王子南部の鑓水(やりみず)あたりの道筋を歩いたことがある。樹木の生い茂る起伏のある細い道で、かつて馬の背に沢山の生糸を乗せて運んでいた様子が目に浮かぶようであった。
そこには横浜の港と地方の養蚕業、製糸業を結びつけた生糸の歴史があり、その活況が三渓園まで繋がっているということを物語っている。

進駐軍のカマボコ兵舎

カマボコ兵舎images

焼野原となった横浜

焼け野原となった横浜市街

1945年(昭和20年)5月29日米軍による横浜爆撃は凄まじいものであった。B29爆撃機517機から25万発もの焼夷弾が投下され、横浜の市街地は焼き尽くされ焼け野原となってしまった。
死者2万人、罹災者31万人、焼失家屋8万という壊滅的な被害であった。

3月10日の東京大空襲、8月6日の広島の原爆投下、8月9日の長崎の原爆投下と同じように膨大な数の一般市民が犠牲となった。
戦争という狂気がこのような大量殺戮と惨劇を惹き起こしてしまうことに、改めて恐ろしさを覚える。
8月15日の終戦宣言により、満州事変から太平洋戦争に至る15年間の無謀な戦争が終結することになった。

厚木基地に降り立つマッカーサー
厚木基地に降り立つマッカーサー

8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、占領政策が本格的に遂行されることになった。
マッカーサーは横浜ニューグランドホテルに暫らく滞在し、その後GHQ本部(連合国総司令部)は皇居前の第一生命ビルに移る。GHQとは別に占領を指揮する第八軍司令部は横浜税関ビルに置かれ、10万もの将兵が上陸して米軍の統治支配が行われることになった。
大桟橋、新港埠頭、倉庫、工場、ホテル、ビル、デパートなど主要な施設と民間人の家屋、土地、農地が強制的に接収された。
横浜エリアで進駐軍によって接収された港湾施設、土地、建物などは、沖縄を 除く全国の6割にも達し、その後長年にわたり使用されることった。焼け野原には兵士用のカマボコ兵舎と将校用の住宅が次々と建てられた。
                     
市の中心部には兵隊用の簡易兵舎が沢山建ち並び、山手、根岸、本牧地区には将校用家族住宅が建てられた。
今では想像も出来ないが、伊勢佐木町の近くに飛行場が建設され、鉄条網の先には戦闘機や輸送機が離着陸していた。
国道1号線から桜木町を経て横須賀にいたる幹線道路16号線には軍用トラックやジープが頻繁に走り、時には戦車が轟音を響かせて走行していた。
神奈川県内には横須賀海軍基地、厚木航空基地、陸軍キャンプ座間、相模総合補給基地など米軍の重要な基地が多数あった。今でもこれらの基地が残されているという状況が続いている。
1945年の夏を境に、横浜には突然アメリカの文化、住居、食べ物、音楽、スポーツ、ファッションなどが一挙に流れ込んできた。
戦災を受けた市民たちが粗末なバッラクに住み、食べ物に飢えている状況の中、一方では豊かなアメリカの生活スタイルが存在していた。

画像の説明
接収校地の一部解除を受けたが米軍のカマボコ兵舎に押しやられた校舎二棟

本牧の丘の上にある母校横浜緑ヶ丘高校のまわりには青々とした広い芝生の庭にライトブルーやオフホワイトの米軍将校の家族住宅が点在して、そこにはまるで別世界の豊かな風景が広がっていた。
戦後の米軍占領という現実が間近にあるにもかかわらず、緑高は解放的で自由闊達な校風と共に明るい青春の雰囲気が醸成されていた。
近くに住むアメリカ人の少年と顔なじみになり、学校で学んだ英語を使いながら英会話の
練習をしていたことが懐かしく思い出される

本牧米軍ハウスimage06
本牧米軍ハウス

接収された大桟橋、新港埠頭、税関ビルなど主要な港湾施設の返還は1951年サンフランシスコ講和条約の締結を経て段階的に実施された。
ちなみに米軍の山下公園住宅地が返還されたのは1960年、本牧住宅地は1982年である。
長年の占領により横浜の復興は他の都市と比べ遅れていたが、接収解除と返還を契機として本格的な復興が進められることになった。
横浜にとって港湾設備と機能の拡充が不可欠であり、大桟橋、高島埠頭、新港埠頭の整備と、山下埠頭、本牧埠頭のコンテナヤードの新設などが急ピッチで進められた。
朝鮮戦争の特需により、三菱重工横浜造船所、日産自動車トラック工場、日本鋼管鶴見製鉄所などの生産活動が本格化した。
戦争の傷跡がいたる所に残っていたが、徐々に焼け野原が新しい街に生まれ変わっていく様子を目にした。その後の高度経済成長の波に乗って横浜が急速に発展し今日の様な国際港湾都市に変貌した姿に隔世の感を覚える。
しかし、戦後70年余りが経過した現在でも、沖縄をはじめとして横須賀、厚木、横田、北海道、三沢、岩国、佐世保など全国には134ヶ所の米軍基地と軍事施設、1010平方キロメートルもの土地が占有されていることをあらためて自覚させられる。
進駐軍のカマボコ兵舎を思い出すたびに、全国には戦争と隣り合わせの多くのエリアがまだ残されている現実について考えさせられる。

つづく

掲載日:平成31年3月7日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ


 港ヨコハマ 私の風土記 (3)

高校12期 野村 邦男

山手に流れる教会の鐘の音
港の見える公園から西に向って根岸競馬場(現根岸森林公園)まで丘陵尾根に山手通りが続いている。この丘の道筋には多くの学校と教会と異人館があり異国情緒の景観と文化が漂っている。
フェリス女学院、雙葉学園、横浜インターナショナルスクールなどがあるが、特にフェリス女学院は古くから馴染みのある学校である。

画像の説明

明治初期1875年にアメリカの伝道者マリー・ギターによって日本の若い女性たちを啓蒙、育成するために設立された。緑に囲まれた校舎の窓からはいつもピアノの音が流れていて、近くの高射砲跡の草原は子供たちの遊び場であった。
通っていた市立元街小学校は山手公園の近くにあり、1873年(明治6年)創立の歴史の古い学校であるが、米軍による空爆から免れ戦後すぐから授業が行われていた。
校長の話で「私たちの国は戦争に敗れたため国も家庭も大変貧乏である。
物を沢山作って外国に輸出してお金を稼がなくてはならない。」と、いかにも港町の学校らしい話が妙に記憶に残っている。
山手通りにはカソリック山手教会、山手聖公会、イエス・キリスト教会など多くの教会がある。

カソリック山手教会

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 カソリック山手教会は開港後、最初に創設された教会で青い尖塔のあるゴッシク様式の聖堂はどこからでも見えるシンボル的な存在である。小学校の帰りに堂内を覗くと、正面にキリスト像があり、ステンドグラスからの淡い光がつくる雰囲気は、別世界にいるように感じられた。
英国国教会系プロテスタントの山手聖公会の聖堂は元町公園の向かい側にある。大谷石で造られたノルマン様式の建造物で、厳粛な感じがする教会である。

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イギリス館

山手通りに沿って、イギリス館、エリスマン邸、ベーリック邸、イタリア外交官の家など異人館が点在している。
丘の上のイギリス館(旧英国総領事公邸)からは港全体を見渡すことが出来、イングリッシュガーデン風のバラ園には四季折々色とりどりの花が咲いている。
開港以来、いち早く貿易業務を開始し、一番多く居留したのが英国人であった。
ジャーディン・マセソン商会、モリソン商会、マーティン商会など貿易会社が進出する一方、多くの技術者が来日して鉄道、造船、築港、水道など基幹になる事業の技術指導を行っている。外人墓地の墓標の半数は英国人で、彼等がこの地に根を下ろし横浜の礎を作った証でもある。
1872年(明治5年)に開通した新橋―横浜間の鉄道建設はエドモンド・モレルの技術指導による。モレルは粉骨砕身の働きをしていたが、この異国の地で病没し外人墓地に葬られている。
横浜の港湾施設と都市機能の整備をしたのが建築家チャード・ブラントンである。
大型船が直接接岸できる桟橋の建設、灯台の設置、近代的下水道の施設などを行った。
開港により急速に増加した住民のために衛生的な飲み水が必要となり、技術者ヘンリー・パーマーは相模川の上流から延々40キロの水道管を敷設し我が国初めての近代的な水道システムを造った。
                    

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      山手公園

また、英国人は、公園、競馬場、テニスコートなど今までの日本にはない新しい生活スタイルを植え付けた。山手の公園、学校、教会などに多くのヒマラヤ杉が見られるが、イギリス人ブルークがインドから持ち帰り植えた種子が大きく育ったものである。

今は静かな異国の雰囲気が漂う山手通りであるが、開港当時はイギリスとフランスの軍隊がこの山手の一角に駐留して緊迫した時期もあった。
歴史を遡ると19世紀、ヨーロッパ列強はアジアに進出して多くの地域を植民地化した。イギリスはインドへの侵略と殖民地化、アヘン戦争により清朝を隷属化、香港、ミャンマー、マレーシアを植民地にした。
フランスはベトナム、ラオス、カンボジアを、オランダはインドネシアを、アメリカはフィリピンを植民地として支配した。
日本は開国以来波乱に満ちた歴史を辿ることになるが、これらの列強によってアジア諸国のように殖民地にされることがなく、近代国家に転換し文明開化の道を進むことが出来たことに改めて感慨を覚える。

元街のパン焼く匂い
1859年(安政6年)の開港に伴い波止場や外国人居留地を造るために、もともと海辺に住んでいた横浜村の住民が幕府の命令で強制的に移住させられた。
山手の丘陵下と堀川沿いの細長いエリアに移り住んだ人々が外国人向けの商売を始めたのが元町である。
文明開化の波をいち早く取り入れて、欧米風の衣服、家具、食品などハイカラな商品を自ら作り販売するようになった。
以来、元町は港ヨコハマを代表するファッショナブルな商店街となり、今では、お洒落な婦人服、紳士服、バッグや靴の革製品、洋家具、装飾品、洋菓子を扱う店舗と、ベーカリー、カフェなどが建ち並び、全国から多くの人が訪れショッピングを楽しんでいる。

日本人は長年にわたり米や麦を炊いたご飯を主体とした食生活であった。
欧米人が持ちこんできたパンという食べ物は当時の人々にとってはまったく異質の新しい食材であり、文明開化の香りがする食べ物であった。
最初は居留地の外国人たちが食べるものとしてイギリス人やフランス人が自らベーカリー工場をつくりパンを焼いていた。
明治初期、打木彦太郎はイギリス人からパンの製造ノウハウを学び、自家製自家製酵母を使った独自のパンを開発した。

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元町に開業した「ウチキパン」は日本人にも受け入られる評判の高いベーカリーとなった.
今でもイングランドパンなどに人気があり、焼き上がる時間にはお客が列をなしている。子供の頃、この店の周りにはパンを焼く匂いが漂い何とも美味しそうに感じられたものである。
横浜や神戸という港町から始まったパンは徐々に全国に広がって行ったが、戦前までは一部の日本人の限られた食べ物であった。戦後、占領軍の進駐に伴いアメリカの食スタイルが一気に浸透して、パンはその代表的な食べ物として広く受け入れられた。
またアメリカの援助で始まった学校給食はパン食が中心であったこともあり、子供が成人になるに従いパン食が日常欠かせない食べ物となり、広く普及する要因ともなった。
パンの品種も豊富になり、扱う店舗もベーカリーからスーパー、コンビニに至るまでどこでもいつでも購入できる食べ物となった。
2011年度家計消費調査の一所帯当り購入金額でパンが米を上回る主食アイテムにまで成長し、日本人の食生活がバラエティ豊かになっている。
戦後すぐに父親が市電の元町停留場の近くに千浜屋という食品店を開業し、小売と業務用卸業を営んでいた。
元町、関内、伊勢崎町、野毛界隈の飲食店に食材を納めていて、学生時代はオートバイや小型トラックで商品の配達や集金の手伝いをしていた。
元町の代官坂を上る中腹にあるナイトクラブ・クリフサイドに、商品の配達に行くとトランペット、ドラム、ピアノなど演奏する音が聞こえていた。

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クリフサイド

南里文雄をはじめ有名なジャズ演奏家、シンガーなどがステージに立っていて、港の夜の社交場であった。現在もエキゾチックな雰囲気の中、若い人達が生演奏とダンスを楽しんでいる。
関内や伊勢佐木町は洋食店、和食店、居酒屋、スタンドバー、カフェなどいろいろな飲食店が、働く人達の食事や憩いの場として大変賑わっていた。
戦後の復興、朝鮮戦争の特需そして高度経済成長という時代の中で、港も町も働く人々も活気に溢れていたことが懐かしく思い出される。

華僑の人達の落地生根
市立港中学校は中華街の入り口延平門の近くにある。当時の在校生は1クラス50人10組で1学年500人もいた。クラスメートに中国人の生徒もいて、中華街をよく歩き回っていたこともあり、馴染みのある場所である。
かつては中華街の店先には鶏や子豚の丸焼きがぶら下がり、あたりには中華料理特有の匂いが漂い、路地に入ると小さな料理店がひしめいていた。

中華街2018-10-14

現在では聘珍楼、満珍楼など有名中華料理店が軒を並べ、料理も広東、上海、北京、四川、台湾と幅広く、多彩なメニューを競っている。中華料理店を中心に食材、菓子、雑貨などを扱う店が500店ほどあり、賑やかで楽しい街になっている。
開港にあわせて、欧米人と共に多くの中国人が香港や広東から横浜にやってきた。当初は欧米人の通訳、給仕、家具職人、日用雑貨、衣料品の商いなどであったが、徐々に料理人も増えて中華料理店も増加した。
日清戦争、関東大震災、日中戦争、太平洋戦争など中国人にとって厳しい事態が続いたたが、彼らの不屈の逞しい生活力によって今日の盛況がある。
明朝や清朝の時代から中国本土を離れて海外で生活する多くの中国人が東南アジア一帯に根づいていて、こうした人々は華僑と呼ばれている。
横浜に根づいた華僑の人達は福建とか福州の出身者が多く、連帯の絆が強くお互いに助け合うネットワークを作っている。商売や仕事をするための資金の融通や情報の共有、人脈の活用など大変根強いものがある。
清朝を倒し中華民国を樹立した孫文は、華僑によってこの地でかくまわれ、支援を受けながら辛亥革命の運動を続けたと云われている。
戦後、中国が中国共産党(毛沢東)の本土と国民党(蒋介石)の台湾に分離した時には中華街の中でも対立が生じたが、政治的抗争を克服したのは街の発展を第一にした華僑の精神であった思われる。

華僑に落地生根という言葉がある。海外に渡り、その地で懸命に働き生涯を終えても、その魂は根を張って新しい命に繋ぎ事業を継続していくという精神が込められている。華僑の人で日本国籍を取得した人を華人と呼んでいる。
華人である龐柱深(バンチュウジン)氏は中華街および横浜の発展に貢献したが認められ、戦後初めて勲五等瑞宝章が授与された。天皇陛下から勲章を貰えるとはこれほどの喜びはないと本人が語っていたとのことである。長年人種差別で苦しみ幾多の困難を乗り越え、この横浜の地に根付いた華僑の人々の心情が伝わってくる逸話である。

つづく

掲載日:平成31年3月12日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ


高校12期 野村 邦男

 港ヨコハマ 私の風土記 (4)

野毛山とみなとみらい
紅葉坂を登って行くと野毛山に至る。この一体は緑豊かな木立の中に伊勢山皇大神宮、不動院、音楽堂、能楽堂、図書館などがあり、文化の雰囲気が漂っている。また、丘の上に広がる動物園には親子連れが訪れ、野毛山公園からは港の景観が一望できる。
かつてこの地は、ペリーの黒船来航以来、幕府の神奈川奉行所が置かれ条約交渉にあたる多くの役人が仕事と生活をしていた場所である。
その一角にある掃部山公園に井伊直弼の銅像が建てられている。

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掃部山公園・井伊直弼の銅像

港ヨコハマの歴史を遡ると、徳川幕府大老として開国を進めた井伊直弼の働きを欠かすことができない。
井伊直弼は日本という国が幕藩体制から明治維新に大転換する時代の渦の真ん中にいた有為転変の人物である。
近江彦根藩の十三代藩主井伊直中の十四男として生まれた庶子である。
17歳から32歳まで貧しい300俵の部屋住みの生活を送った。
この間に国学、兵学、居合術から茶道、和歌、能楽、禅に至るまで幅広い文武両道の素養を身につけている。
その聡明さから巡り巡って第十五代藩主となる。その後幕府の老中、大老という幕政の重職を担うことになり、開国と攘夷の激しい対立抗争の舵取りをすることになった。1858年(安政5年)直弼は開国論に立ち、アメリカ及びヨーロッパ諸国との修好通商条約に調印した。
朝廷の勅許なしの条約調印に対する批判と尊皇攘夷運動が渦巻く中で、安政の大獄と云われる処置を強行した。桜田門外の変で直弼は水戸脱藩浪士たちに斬殺され、幾多の曲折を経て幕藩体制は崩壊し、明治新政府の時代を迎えることになる。
直弼についてはさまざまな毀誉褒貶はあるが、200年以上続いた鎖国という世界から閉ざされた体制を開国し、横浜、神戸、長崎、函館、新潟の5港を開港した歴史上の意義は大変大きい。
井伊直弼の決断と実行によって、長い鎖国から世界に門戸を開き近代国家に転換する契機となった。そして横浜が国際港湾都市として発展して、日本の経済、社会そして人々の生活向上に貢献していることは間違いない事実である。
野毛の小高い丘の上に建つ井伊直弼像は、真向かいに広がる港の全景をどのような思いで眺めているのであろうか。

JR根岸線の高架が通っている海側のエリアがみなとみらい21である。かつて桜木町から乗る京浜東北線や東急東横線の車窓から延々と広がる三菱重工横浜造船所が見えた。巨大な数多くのクレーンが動いている光景が印象に残っている。
1980年代に造船所や国鉄操車場跡を再開発して、ウォーターフロント都市計画に基づき約30年をかけて整備建設された街である。

みなとみらい21の夕景 (002)
みなとみらい21の夕景

186haの広大な敷地には横浜ランドマークタワー、日産グローバル本社、パシフィコ横浜などの高層ビルが林立し、赤レンガ倉庫群、大観覧車などの観光施設もある。
みなとみらい地区にはイルミネーションに輝くホテルやレストランが多数あり国内外から多くの人々が訪れる華やかなエリアである。
一方、JRの高架を挟んだ野毛地区にはまったく違った街の様相がある。

野毛の呑み屋街

野毛の呑み屋街 (002)

野毛には600軒の店屋があると云われていて、その多くが飲食店である。
立ち呑屋、居酒屋、焼鳥屋、おでん屋、焼肉屋、ラーメン屋など庶民的な飲食店が多く、軒を並べる店からはいろいろな食べ物の匂いが漂っている。
夕方には仕事を終えたサラリーマンや作業員で賑わい、店によっては路上に出された小さなテーブルとイスで一杯やっている人たちもいる。
古くから人気のジャズ喫茶「ちぐさ」には馴染みのミュージシャンや愛好家が今でも通っているようである。
学生時代、早大横浜会の友人たちと「養老の滝」という居酒屋で時折コンパをしたことが思い出される。安酒を飲みながら語り合った仲間たちと50年余りが経った現在も親交が続いている。
戦後の闇市からスタートした野毛は、今もなお雑然、混然としたエネルギーの溢れた町として庶民を引き寄せている。

移民船の別れのテープ
1950年代から60年代にかけて、大桟橋から移民船が船出する光景をしばしば見た。船の銅鑼の音が鳴り響き、無数の紙テープを移民する人々と見送る人々が手にして、船からも大桟橋からも大きな声が一斉に上がり、多くの人達が涙していた。移民船が赤灯台を過ぎて船体が見えなくなるまで見送る人達の姿と光景が瞼に残っている。

3移民船の出港風景 (002)
移民船の出港風景

かつての日本は移民政策を積極的に進めた国家であった。
明治初年1868年(明治元年)最初の移民150人がハワイに向って船出し、その後3万人ほどが移住している。その後、メキシコへの移民をはじめアメリカ、カナダなどへの移民政策が積極的に進められた。
1923年、合衆国は日本人の移民が急増したことにより反日世論が高まり移民入国を禁止した。これを契機にブラジルやペルーなど南米への移民が本格化した。
一方アジア地域では1895年台湾の日本領土化、1910年朝鮮併合、1914年ミクロネシア委任統治領化など植民地化政策の拡大により何十万人もの人々が移民、移住した。
更に、1932年(昭和7年)満州国建設に伴い国家政策として500万人という無謀にして途方もない移住計画が立てられた。
その実行部隊として満蒙開拓団が結成され東北、中部地方の農民約32万人が半ば強引に移住させられた。
またフィリピンをはじめ東南アジアの諸地域にも殖民として送りこまれた。
こうした国家政策のもとに移民、移住した多くの人々は厳しい環境の中苦難の生活を送り、異国の地に家族が離散し、命を落とす惨劇が数多生じた。
特に、満州に移住した多くの人々が戦争に巻き込まれ悲惨な犠牲者となり、家族と離別した中国残留孤児という悲しい惨禍が現在まで続いている。
中にはブラジルやアメリカなどで苦難を克服し、農場や牧場の経営に成功し、その地で日系人として二世三世と事業を継承しながら活躍している人々もいる。
また移民を受け入れた地域や社会の発展のために貢献している事例もある。
戦前、戦中は日本からの移民は完全にストップしていたが、1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約の締結により、海外への定住農業移民が再び開始されることになった。以後、ブラジル、アルゼンチン、ドミニカ、ボリビアなど南米への移民が増大した。
大桟橋からしばしば見た光景は、移民船ぶらじる丸やあるぜんちな丸で移民する人々の送別の情景であった。
時は移り、最近はブラジルをはじめ南米諸国、東南アジアから多くの人々が日本に仕事を求め移住してきている。

世界の近現代史は移民、難民問題を抜きにしては語ることが出来ない。
古今東西、世界のほとんどの紛争と戦争は領土、民族、宗教そして移民・難民による問題から引き起こされている。
スペイン、ポルトガルによる中南米の殖民地化と支配、イギリス、フランス、ドイツなどによるアジア、中東、アフリカ諸地域の植民地支配と入植移民、ヨーロッパ諸国からの新大陸アメリカとカナダへの大量移民、そしてアフリカからアメリカ合衆国への強制的奴隷移民などが行われてきた歴史がある。
こうした移民が多くの犠牲と紛争を生み出したことも事実であるが、一方欧米諸国の多様性のある社会と文化をつくってきたことも事実である。

しかし、最近はアメリカ合衆とヨーロッパ諸国において移民・難民受入れ制限や禁止の動きが顕著となり深刻な問題となっている。
こうした事態は対岸の出来事ではなく、日本の戦前、戦後の移民政策を振り返り、今後海外から受け入れる移民、移住について真摯に考察することは日本人にとって大きな課題であると思われる。

氷川丸の戦争と平和

⑤山下公園の氷川丸 (002)
山下公園の氷川丸

山下公園の岸壁に氷川丸が繋留されている。岸壁を繋ぐロープにはいつも数羽の白い鷗が止まり、多くの人々が見学に訪れている。
赤灯台が見える穏やかな海辺に浮くスマートな船体は港のシンボルである。
しかし、氷川丸は戦争と平和の生き証人とも言える存在である。

この船は1930年、北米シアトル航路の貨客船として横浜船渠で建造され就航した。オーシャンライナーという船型、アール・デコ様式の船内インテリア、一流シェフによる料理など当時としては最先端をいく船であった。
戦前は多くの人々を運び、中にはチャールズ・チャプリンや宝塚歌劇団などが乗船して日米を繋ぐ文化的な役割を果たしていた。
しかしながら、日米開戦を間近にして交換船として在米・在加の日本人の帰国、在日アメリカ人・カナダ人を本国に送るため太平洋を往復している。

2病院船時代の氷川丸 (002)
病院船時代の氷川丸

戦争中は日本海軍に病院船として徴用され、船体は白色、緑色の帯を引き赤い赤十字のマークが付けられた。
傷病兵を輸送する中、インドネシア・スラバヤ、カロリン諸島、シンガポールなど危険な海域を航行し、魚雷による攻撃、機雷の爆発によって被害を受けたが、沈没を免れたことはまことに奇跡的であった。
終戦後、暫らく外地からの引き揚げ者の輸送の任務を担い、シアトル航路への復帰を果たした。平和の時代となり、多くのフルブライト交換留学生などを乗せてアメリカへと向う文化的交流の役割も担った。
1960年、太平洋横断239回目の最終航海を終え、この間25000人もの人を運んだと記録されている。

太平洋戦争の顛末として、ミッドウエイ海戦、ガダルカナル海戦、戦艦大和・武蔵の沈没などについて語られることが多いが、民間の貨物船、客船の膨大な船舶が犠牲となり沈没している史実が語られることは少ない。
戦前の日本の商船隊は世界第三位の陣容であったが、この戦争によって失われた船の総数は2600隻、840万総トンにのぼり、壊滅的な被害を受けた。本来客船、貨物船として運航されていた多くの商船が海軍によって強制的に徴用され、軍艦あるいは輸送船として用いられた。
無防備の船はなすすべもなく爆弾や魚雷によって撃沈され海の藻屑となって消えてしまった。戦争の悲惨さ、多数の船舶の消滅ばかりでなくおびただしい数の民間人である船員が命を落としているところにもある。

氷川丸はこのような凄まじい戦禍の中を生き残った数少ない外航船である。
解体される予定もあったが、この船を保存したいという多くの人々の強い要望によって大規模な補修が行われ、港のシンボルとして山下公園に繋留されることになった。
現在は国の重要文化財に指定され、日本郵船が管理する博物館船氷川丸として一般に公開され平和な余生を送っている。
この氷川丸を眺めるたびに、この船が辿った戦争と平和について考えさせられることが多い。
平穏な青い海、空飛ぶカモメ、大桟橋に接岸している外航船、湾内を走るクルーザー、コンテナヤードのガントリークレーン、湾岸地域を結ぶベイブリッジ、臨海部の工場群を見渡し、そして穏やかに静かに船体を浮かべる氷川丸を見ていると平和の大切さが一層感じられる。   
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掲載日:平成31年3月19日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ