追憶の道 みちのく紀行 1

 
【野村邦男】

  
東京駅を出発した東北本線の列車はひたすらに北に向かって走行する。
関東平野を過ぎて福島・白河に入ると車窓から見える景色が変わる。
遠くに安達太良山、吾妻山、蔵王山の山並が連なり、どこまでも美しい田園風景が広がる。

1 安達太良の山並
安達太良の山並

初夏には瑞々しい青田が、秋には黄金色の稲穂が稔る。

2宮城野の田園風景
宮城野の田園風景

仙台、一関、平泉、盛岡を経由して、さらに鉄路は北上を続け青森にまで至る。
みちのくは古代からからの呼称であり、ほぼ現在の東北地域を指している。
また、みちのくは奈良、京都、鎌倉、江戸といった政治の表舞台とは違った歴史を繰り広げた地域であり、独自の文化と美しい自然が織りなす風土である。
奥州藤原四代の盛衰と源義経の光芒、西行法師と松尾芭蕉のみちのくへの深い想いの旅路、宮沢賢治の独創的な作品と精神世界に触れる旅に出ることにした。

みちのくの歴史と平泉文化

みちのくを旅するにあたり、平安期から鎌倉期における奥州・出羽一帯の歴史を知りたいと思った。
かつて、みちのくは奈良・平安時代の人々からは蝦夷(エミシ)と呼ばれ辺境の地、
異境の地とされていた。
大和朝廷は8世紀前半に国名を日本とし、天皇を頂点とした律令制による統治体制を拡充していた

3平安期の行政地図
平安期の行政地図

近畿を中心にして九州・山陽・四国・北陸・中部・関東を支配下に治めたが、福島白河以北の奥州・出羽地域は統治体制が及ばない地域であった。
この地域を征服し統治下におくために朝廷は度々軍を動員して支配しようとした。平安初期には坂上田村麻呂を総指揮官として大軍を送り込み、エミシの族長であるアテルイが指揮する先住民との闘いを度々繰り広げた。
田村麻呂は天皇から征夷大将軍という軍事部門の最高職を任命されていた。

4坂上田村麻呂
坂上田村麻呂

征夷には同じ日本列島に生活する人々を夷狄(いてき)即ち外敵として攻め滅ぼすという意味があった。それ以来、征夷大将軍に任ぜられることが武家部門の長として最高の権威を示すものとなり、平安期から徳川15代将軍に至るまで千年以上にわたり続けられてきた。幕末には攘夷論が台頭し、本来の「夷」である外敵・欧米列強に立ち向かうことになった経緯がある。
「征夷」には歴史の光と影が宿っているように思われる。

平安時代のみちのくは地域ごとの豪族が、その領地の保持、拡大のために紛争を繰り広げていて、平安後期になると陸奥国で前九年の役が勃発した。
奥州の俘囚の長である安倍一族と朝廷派遣の源頼義軍との九年間にわたる戦いであったが、頼義・義家父子の軍勢と出羽の清原一族とが連合した同盟軍が勝利した。
20年後、再び後三年の役が引き起こされた。

後三年の役絵図
後三年の役絵図

奥羽を支配した豪族清原一族の後継をめぐる内紛による三年間の戦であった。奥六郡の三郡の支配者にすぎなかった藤原清衡(きよひら)は、陸奥守であった源義家の支援を得ることにより、戦に勝利し陸奥・出羽全域の実質的な支配者となった。

1089年陸奥・出羽全域の支配者となった藤原清衡はみちのく統治の中心を平泉に置いた。

藤原清衡
藤原清衡

戦乱が続いていたみちのくを平穏な地にすることが清衡の第一の政治課題であった。そして蝦夷(エミシ)と呼ばれた辺境の地を京都、関東と 並ぶ第三の勢力地域にすることにあった。
そのために藤原三代にわたり沙金、良馬、絹織物などの殖産に努め財政基盤の拡充を図った。
特に、奥州藤原一族のみちのく支配には金の産出が大きく貢献した。

平安後期のみちのく勢力図
平安後期のみちのく勢力図

古代・中世の日本における沙金のほとんどは平泉周辺及び岩手南部から宮城北部にかけての地域から産出されていた。金の精錬技術のない時代には沙金から金を取り出すのが最も有効な方法であり、山岳地帯や河川流域の鉱脈から地表に出ている沙金を容易に採取することができた。
藤原氏一族は採取した沙金によって財政が豊かになり、みちのく一帯の支配力を拡大することになった。
更に平安末期の保元平治の乱など不安定な政治状況の中で、奥州が100年間にわたり国内でも独立した勢力圏を形成することができたのは沙金による財政が大きく貢献していたものと思われる。
ちなみに、江戸時代に直轄領として開発された佐渡金山は徳川幕府の大きな財政基盤となった。

次に、藤原一族は京の都に比肩するような仏教の王都を平泉につくることを目指した。
初代清衡は中尊寺を、二代基衡(もとひら)は毛越寺(もうつうじ)・観自在王院を、三代秀衡(ひでひら)は無量光院を建立した。
阿弥陀如来の信仰と西方極楽浄土に往生することを願う浄土思想に基づくものである。

中尊寺金色堂
中尊寺金色堂

清衡は中尊寺建立にあたり、幾多の戦役で亡くなった人々を敵味方なく弔うという願文を納めている。
いずれも広大な伽藍には浄土庭園と多くの塔頭、僧房が築造され、中でも金色堂は黄金に輝く仏像をはじめ装飾品は高度な技巧と貴重な材料によって造られていた。
1189年鎌倉軍の攻撃によって藤原三代が築いたみちのくの支配体制は消滅し、仏教文化の建造物も中尊寺を除きことごとく灰燼に帰してしまった。

毛越寺浄土庭園
毛越寺浄土庭園

しかし、800年という長い年月の風雪と激動する時勢に耐えて平泉の精神文化は命脈をつないできた。
2011年、ユネスコは中尊寺、毛越寺、観自在王院跡など平泉の仏教文化と遺跡群を世界文化遺産として登録した。
平泉の文化遺産の数々を巡り目の当たりにして、人の世の栄枯盛衰は常なるものではあるが、真に価値があり普遍性を持つ文化は永続するものであることを改めて認識した。
そして、みちのくの一地域の文化に留まらず、世界の人々に共有される文化遺産にもなったことに感慨を覚えた。

奥州藤原四代の盛衰と源義経の光芒

東北本線の平泉駅で下車し駅前の広場から眺める景観は、地方都市のどこにでもあるようなビルも商店街も見られない。
近代化以前の昔と変わらないような状景が静かに広がっているばかりであり、ところどころで遺跡の発掘調査が行われている。
駅から中尊寺までは歩いて行ける距離である。道の途中の東側に高館に向かう石段があり、登っていくと高館の丘の頂に出る。
この高館の丘からは眼下に北上川のゆったりとした悠久の流れを望み、はるか彼方には北上高地の山々が見える。

北上川
北上川

平泉の中心部を眺めると、中尊寺の伽藍、柳之御所跡、毛越寺、無量光院、観自在王院など藤原三代が築いた仏教王土がまぼろしのように目に浮かぶ。
平安末期は天皇・公家による摂関政治から武家政治に大きく転換する時期であり、幾多の戦いが繰り広げられた。
平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は東国に逃れる途中で謀殺される。

平治の乱絵巻
平治の乱絵巻

義朝の三男頼朝は伊豆に流され、九男義経は洛北の鞍馬寺に預けられる。
義経は鞍馬の山中で武芸に励み強靭な武人に成長した。16歳の時に鞍馬寺を出て、奥州平泉の藤原秀衡を訪ね庇護を求めた。京と奥州を往来し沙金の有力な商人である金売り吉次が、義経と秀衡とを結びつけたと伝えられている。
義経の並々ならぬ武芸の力量に感服した秀衡は、自分の子息以上に大事に遇し、21歳になるまでの5年間、膝下で戦の戦略戦術をも教え込んだものと思われる。
頼朝が伊豆で平家打倒、源氏再興の旗揚げをすると直ちに平泉から馳せ参じ、富士川合戦の黄瀬川の陣にて初めて異母兄弟が対面することになった。

源義経
源義経

頼朝は当時政情混乱の京の都を支配していた木曽義仲の征伐を義経に命じ、宇治川の戦いで義仲を討ち果たした。
次に平家追討軍の指揮官となった義経は一の谷鵯越の戦闘、屋島の戦い、壇之浦の海戦において勇猛果敢な戦術を駆使して勝利を治め、平家を滅亡させた。
源氏の棟梁としての権力を手中にした頼朝は、義経が朝廷から検非違使・左衛門少尉の官位を頼朝の許可を受けることなく受領したことに怒った。

源頼朝
源頼朝

また義経の武将としての並外れた力量に恐れを抱いていた頼朝は、義経の平家打倒の武功を一切認めず、逆に追討する指令を出す。更に抹殺するという過酷な措置を執拗に次々と発したため、義経は京から吉野、北陸、東北など逃亡を続け、最後は奥州藤原秀衡に庇護を求めた。
秀衡としては義経を庇護すれば頼朝の攻撃を受けることは覚悟の上で、義経一行を受け入れた。

藤原秀衡
藤原秀衡

間もなくして病魔に襲われた秀衡は臨終の間際に義経と実子の泰衡、国衡を呼び、秀衡無き後は義経を総大将とすること、一族結束して鎌倉・頼朝に抗戦することを遺言とした。しかしその後、頼朝の脅しに屈した泰衡は義経を夜襲して殺害してしまう。
衣川の館にいた義経は妻娘と共に自刃し、弁慶ほか従者たちは抗戦むなしく全員が討ち死にした。
頼朝の狙いは義経の抹殺だけでなく、東北一帯に巨大な勢力を築いてきた藤原一族を滅亡することにあった。義経殺害後ほどなく頼朝は28万という大兵力を三方から平泉に向けて進撃して瞬く間に泰衡をはじめ一族の命脈を絶った。
 ここに奥州藤原四代・百年の支配体制はまぼろしのごとくに消滅した。
鎮守府将軍職にあった奥州藤原王国を滅亡させることによって、名実ともに全国の武家を統括する征夷大将軍となったということができる。
 1192年、武家による本格的な政治・軍事の統治体制である鎌倉幕府が樹立された。

高舘の丘には義経を祀る小さな社がある。

高舘の義経像
高舘の義経像

平家を滅亡させた日本史上際立つ英雄の社とは思えないような質素なものであり、鎧兜を身に着けた義経の座像が祀られている。江戸の初期仙台藩主が義経を偲び祀ったものである。
義経像の視線は遥か彼方の鎌倉の方に向けられているように見える。波乱に富んだ戦の天才義経は無念の想いを残して31歳という短い生涯をこの北の地で閉じた。義経像を見ていると、人の世はまさに有為転変・諸行無常であることに感じ入った。
しかし源義経という武将の命は失われても、800年経っても多くの日本人の心にはいつまでも面影と活躍は生き続けている。
その生涯は史書の「吾妻鑑」をはじめ、平家物語、源平盛衰記,義経記などで語り継がれ、能の「屋島」「安宅」、歌舞伎の「勧進帳」「義経千本桜」など多くの演目が今日まで演じ続けられている。

歌舞伎・勧進帳
歌舞伎・勧進帳

黄金の国ジパングから東方見聞録、新大陸発見へ

万葉集の最も著名な歌人であり、大和朝廷の各地の国司をも勤めた大伴家持は、
みちのくの黄金についての和歌を詠んでいる。
 
    すめろぎの御代栄えんとあずまなる
                みちのく山にくがね花咲く

みちのくの黄金は北の辺境の地に豊かな文化を生み出した。
中尊寺に向かうなだらかな月見坂を登って行くと紅葉に彩られた境内にたどり着いた。
広い境内には本堂、金色堂、阿弥陀堂、釈迦堂など多くの仏堂が配置されていて、一番奥には白山神社と茅葺屋根の能舞台がある。
ほとんどの建物が戦火によって失われその後再建されたものであるが、中尊寺の金色堂だけは奇跡的に戦火と火災を免れ、900年後の今日まで荘厳な姿を残している。
金色堂は国宝とされ、仏像から須弥壇、主柱、装飾品に至るまですべて金箔で覆われ金色に輝いている。

黄金に輝く金色堂
黄金に輝く金色堂

本尊の阿弥陀如来像はじめ観音勢至菩薩、地蔵菩薩などの仏像は京から招聘された仏師雲慶らの高度な工芸技術によって造られたものである。金色堂の造作全てに金箔、漆、蒔絵、螺鈿が施されていると共に、海外から調達した夜光貝、象牙、犀角など大変珍重な材料が使用されていることに驚かされる。

奇しくもこの平泉の黄金文化が黄金の国ジパングとしてヨーロッパに広く知られるようになる。
マルコ・ポーロが東方見聞録において、アジア大陸の東端の海中に黄金に輝く島国があると記述したことから、当時のヨーロッパの人々に関心を呼び起こすことになった。
マルコ・ポーロはヴェネツィアの商人であり、若いころから父親・叔父と共に長期長途のキャラバンを重ね、元王朝はじめ多くの国との交易を行っていた。

マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロはヨーロッパから中東、中央アジア、中国までの旅することにより、シルクロードの各地域の政治・経済・社会事情に精通し、多くの情報を持っていた。
 中国では、ジンギス・ハーンが蒙古高原から急速に勢力を増大し版図を拡大し、1279年に南宋を滅ぼして元王朝を樹立した。時を経て元王朝にはフビライ・ハンが三代皇帝の座についていた。
マルコ・ポーロは旅で得た情報をフビライに進言することにより重用され、政治官を任命され臣下として働いた。17年間中国に滞在し中国の各地と東南アジアの国々を訪れ調査活動を行っている。

フビライはかねてより日本について強い関心があり、調べさせていたことが想像され、元王朝の要人の間でもいろいろな情報が交わされていたものと思われる。
 マルコ・ポーロは実際のところ日本を訪れていないが、そうした情報に接したことを素材にして東方見聞録に黄金の国ジパングを記述したものと思われる。記述の内容は正確なものではないが、その概要は以下のように綴られている。
「ジパングは東海にある大きな島で、大陸から二千四百キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で物資にめぐまれている。

東方見聞録の行程図
東方見聞録の行程図

偶像を崇拝し、どこにも属さず独立している。黄金は無尽蔵にあるが国王は輸出を禁じている。
宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、宮殿内の道路や部屋の床も純金の板をしきつめている。窓さえ黄金でできているのでその豪華さは想像の範囲をこえているのだ。
また、見聞記には元寇のこともかなり詳しく記述されている。
「フビライはこの島の金や富のことを聞いて占領する計画をたて、実際に軍船と歩兵・騎兵の大軍を向かわせた。しかし嵐のために艦隊が難破してしまい撤退した」というような内容が記されている。

マルコ・ポーロが故郷ヴェネツィアに戻り1298年に発行された東方見聞録は当時のヨーロッパ人に多くの影響を与えた。
その中でもこの見聞録に特別な関心を持った人物がクリストファー・コロンブスである。

クリストファー・コロンブス
クリストファー・コロンブス

コロンブスは見聞録を熱心に読み、大西洋を西回りの航路によってインド・中国そしてジパング島へ到達するとことを想定し、ジパングの黄金を獲得するという計画を立てたと言われている。1492年スペインのイサベル1世とフェルナンド2世の支援を得て3隻の船隊で航海に出る。
航海中の日誌には何度も黄金の島ジパングを目指していること、そのための進路を模索していたことが記されている。

コロンブスの4度の航海図
コロンブスの4度の航海図

3カ月の航海を経て10月に中米のサンサルバドル島に到着した。コロンブスは4度大西洋を渡る航海を行うが、最後まで中米の島がジパングの島と思い込んでいたと云われている。
しかし、結果としてジパング島の発見はなくアメリ大陸の発見という世界史に刻まれる偉業を成し遂げたことになった。
日本列島の平泉を中心とした小さな地域が沙金を産出し黄金文化を築いたことが、コロンブスのアメリカ大陸発見にまでつながっていたことに興味は尽きない。
金色堂の堂内に立って拝観していると、金色に輝く仏像や工芸品が世界の大航海時代の幕開けにまで繋がっていたことに感動を覚えた。

{次回は西行法師と松尾芭蕉のみちのくへの深い想いと旅路にとつづく}

掲載日:2022 年 4月18日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)

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