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高校12期会

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目次

 追憶の道 みちのく紀行 2

野村邦男

和歌の世界では歌聖と称せられる西行法師がみちのくに深い想いを抱き、京都・伊勢と奥州平泉の遥かな道のりを徒歩で二度も往復したことに驚きを覚える。
西行の修行者としての遍歴を辿り、旅の途次に詠んだ和歌に触れることにより、西行の精神のありどころに近づくことができればと思う。

西行法師は歌聖にして修験の旅人

西行は武士、法師そして歌人という日本の文芸史上できわめて稀有な存在である。
西行は平安末期武門の家系に生まれ育ち、父佐藤康清は検非違使の官位にあった。
元服後、佐藤義清(のりきよ)は北面の武士となり鳥羽上皇に仕えた。武道と歌道に優れ流鏑馬の達人でもあり将来を嘱望された青年であった。
しかし23歳の時に妻子と離別し、官職も捨てて出家をした。出家の要因は仏道への帰依や歌道の道を貫くためなど諸説がある。
平安後期は保元・平治の戦乱と震災・風水害・飢饉・疫病などに次々に襲われ末法の世と云われるような混乱と困窮に覆われた時代である。

保元の合戦図屏風
保元の合戦図屏風

若い西行は、混迷する世情、過酷な人々の生活、親しい人々の死を目の当たりにして自分自身を厳しく見直し、出家と修行の道を選んだように思える。

出家後しばらくは京都周辺の鞍馬・嵯峨・醍醐に草庵生活を営むが、その後は山深い吉野と峻険な大峰山での厳しい修行を重ねるようになる。
かつて吉野の山中に西行庵を訪ねたことがある。

吉野の西行庵
吉野の西行庵 

奥千本を更に山深く分け入り崖沿いの細道を辿って行くと三間四方の粗末な草庵があった。そこからは谷を隔てて遥かに大峰の山々を望み、周りは木々に覆われ寂寥としている。人里からは隔絶された草庵に、三年もの間唯独りで修行生活をするのは並外れた精神力がないとできないことだと感じた。
大峰山の修験山伏修行では断崖絶壁から谷底に落ちるような危険な場所で死と隣り合わせの苦行を行い、吉野から熊野至る1500m級の険しい峰々を踏破する大峰奥駆という荒行を行っている。

大峰山山伏修行
大峰山山伏修行

また弘法大師開山の高野山では真言密教の僧として教義を修得し、草庵を結んで修行をしている。30年ほどの間、高野山を拠点にして京都を行き来し、熊野、伊勢、讃岐などへの行脚をしている。

西行の生涯を通して根底にあるものは、こうした修験道の厳しい修行を通して身についた精神にあると思われる。
真言僧でありながら修験者である西行は天地自然と人の命は一体であることを感得し、山桜をはじめあらゆる草木や生きものに愛着を持っていた。

西行座像
西行座像

併せて、みちのくへの旅など長期長途の苦難の行脚に耐えることができたのは強靭な身体と不屈の精神によるものであると云うことができる。

一方、和歌の世界では西行は藤原俊成・藤原定家とも親交があり、勅撰の新古今和歌集に最も多くの歌が載せられた平安期を代表する歌人である。
西行の和歌は、厳しい仏道修行と草庵生活と修験の旅の中で生み出されたものであり、そこには都の王朝歌人たちとは違う独自の深い精神的なものが込められている。
「歌は即ち如来の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思いであり、真言を唱える思いである」と自ら記しているところに真髄がある。
天地自然の中に身を置き、身も心も山川草木に溶け込むような無我の境地から数多の秀歌が紡ぎだされたものと思われる。
特に山桜をこよなく愛したのは、美しく咲き儚く散り行く桜花と西行自身の心境を重ねていたのかも知れない。

西行法師のみちのくへの深い想いと二度の遥かな旅路

京都・伊勢から奥州平泉まで往復2000km以上もある道のりを1年もかけて二度の旅をしている。山を越え、谷や川を渡り未知の土地を独りで歩いて行くことは途方もなく大変なことである。
僧衣に柿渋を塗った雨具を背に負い菅笠を被り草鞋を履く旅姿で、宿場に泊まるか民家に一夜の宿を頼むか、野宿をするかというような旅である。

西行の旅姿
西行の旅姿

風雨の激しい日もあり、酷暑や寒冷の厳しい日もあり、獣に襲われる危険もあったことと思われる。身体がきわめて壮健であり、強靭な精神力がないとできない旅である。

一度目の奥州への旅は二十代後半であった。当時都から遠く離れた奥州・みちのくは異境であり辺境の地とされていた。
若い西行をみちのくの旅に駆り立てたものは何であったのであろうか。
みちのくの自然、人々の生活、異文化に触れたいという思い、異境の地で和歌の新しい境地を拓きたいという思い、修験者として未知の世界で更なる自己鍛錬をする思いなどがあったのではないかと推測される。

     心なき身にもあはれは知られけり
              鴫立つ沢の秋の夕暮

大磯の夕景
大磯の夕景

京を出立し逢坂の関を経て東海道を歩き峻険な箱根を越えて、ようやく坂東の地に足を踏み入れた。大磯の海辺にしばらく佇んでいると、夕暮が迫るなか鴫一羽が静かに飛び立つ姿が目に入った。出家の身である自分にはあわれを感じる情感が乏しいが、この蕭然とした夕景はこころに沁み入るものがあり、つくづくとものの哀れを感じさせられるという西行の心の内が伝わる歌である。
江戸の初期、この大磯の海辺近くに鴫立庵(しぎたつあん)が造られ、現在は和歌や俳句の愛好家が集い西行を追想する場となっている。

    道のべに清水流るる柳かげ
              しばしとて立ちどまれ

相模・武蔵・下総と歩き続けて来て、那須の広々とした農村地帯まで至る。

遊行柳
遊行柳

清水が流れる道のべに一本の柳が青々と涼しげに枝垂れているので、しばらく木陰で
ひと休みすることにしたという情景。長く険しい旅路の中でほっと寛ぐ気分が伝わる。
500年後に西行の歌枕を辿る松尾芭蕉がこの場所を訪れ、句を詠んでいる。
現在も那須野の芦野の田んぼ道にこの柳の命が代々引き継がれている。
能楽では「遊行柳」(ゆぎょうやなぎ)という夢幻能が演じられている。
  
     しらかはの関屋を月のもる影は
             人の心をとむるなりけり

白河の関は異境・辺境の地とされていたみちのくへ入る最初の関である。

白河の関跡
白河の関跡

春に京を出立してはるばる旅を続けてきたが、もう秋となってしまった。
古代からの関屋を守る人も居らず、荒れた建物からは月の光が漏れ射し込んでいるばかりでしみじみとした寂寞を感じる。しかし冴え冴えとした月影は美しく、旅人である自分のこころは引き留められてしまうという気持が詠まれている。この関屋で一夜をあかした西行は、いよいよみちのくの地に足を踏み入れて旅をつづける。

   とりわきて心に沁みて冴えぞわたる
                衣河見に来たる今日しも

雪の衣川
雪の衣川

半年ほどかけてようやく平泉に辿り着いた。奥州藤原氏の二代藤原基衡と後に三代目となる若き日の秀衡の厚い歓待を受け、仏道、武芸、歌道のことなど話し合ったものと思われる。
みちのくの王都平泉には京の都とは違う独自の文化と気風があり、中尊寺や毛越寺など壮大な寺院が建立され賑わいがあった。平泉の近くには衣川が流れ大河北上川に合流している。雪の降る寒い日であったが、衣川を見たくなり川岸まで出かけた。古戦場の跡に立って眺めていると前九年・後三年の役のことなどが思い出され、心に沁みて冴え冴えとした気持になったという情感が伝わる。

京に戻った西行は高野山での仏法修行、熊野や讃岐への行脚をつづけ、更に伊勢での草庵生活を送っていた。

東大寺大仏
東大寺大仏

そうした時期、源平の大争乱が勃発し、戦闘が各地で引き起こされていた。古都奈良も戦火に曝され、平氏によって東大寺の大仏も崩壊してしまった。尊崇する重源上人から、大仏再建のために奥州藤原氏に沙金を献上することを勧進するよう依頼される。
大仏は建立以来鍍金によって全体が黄金に輝いていた。その姿を再現するための沙金の勧進である。
既に六十九歳の高齢になっていた西行は奥州への旅は大変な苦難が伴うことが十分予想されたが、使命感から引き受けることにしたものと思われる。
当時の平均寿命が三十歳ほどであり、現在の年齢に推定すると八十から九十歳前後の老齢である。二十代後半の若い頃の一度目の旅と違い、二度目の旅は道中で行き倒れして死ぬことになるかも知れないとの覚悟の旅である。
それにしても西行の不屈で強靭な意志と行動力に驚嘆するばかりである。
 
    年たけてまた越ゆべしと思ひきや
             いのちなりけり小夜の中山

小夜の中山・歌川広重絵
小夜の中山・歌川広重絵

40年前の若い頃に越えた小夜(さよ)の中山を七十歳に近い高齢となって再び越えることになるとは夢にも思わなかった。生きながらこうして歩いているのも命があってのことである。これも運命であり仏の導きなのであろうという、西行の心のつぶやきが聞こえるような歌である。
この歌には修験者としての魂が込められていると思われる。小夜の中山は遠州掛川の峠道で、江戸期の浮世絵に描かれている。
    
      風になびく富士のけぶりの空に消えて
             行方も知らぬわが思ひかな

けむりたなびく富士
当時の富士山は噴火活動中で噴煙を上げていた

富士山の雄大な姿を眺めながら野道を歩いていると、自分のこれまでの来し方が脳裏に浮かび、これからの行方はどのようになるのであろうかという思いがよぎる。しかしながら大きな自然界と比べると、人の命も世の営みも噴煙のようにたなびき消えてしまう儚いものであるという、悟りのような心象風景が詠まれている。
この歌からは、西行がさまざまな体験と葛藤そして厳しい修行の末に、何ごとにも捉われない無執の境地に到達していたのではないかと推測される。

箱根を越えて相模の国の海辺に沿って歩いて行くと鎌倉に至った。
鶴岡八幡宮を拝し境内を歩いていると、たまたま源頼朝と家臣たちと出逢った。
この老僧は如何なる者であるかと尋ねられると「かつては佐藤兵衛尉義清、今は法師西行である」と名乗った。西行の名声は鎌倉まで届いていたようで、その立ち振る舞いに常人とは違うものがあると見て取った頼朝は自ら館に招き入れた。
一晩深夜に至るまで歌道や武道のことを語り合い、特に弓馬・流鏑馬(やぶさめ)について西行に教えを乞うたという逸話が史書「吾妻鑑」に記されている。

鶴岡八幡宮の流鏑馬
鶴岡八幡宮の流鏑馬

この面談の翌年から鶴岡八幡宮の神事として流鏑馬が行われるようになり今日まで続けられている。

西行は鎌倉を後にして武蔵・下野・岩代・宮城野と苦難の旅を続け、ようやく奥州平泉に辿り着く。西行は藤原秀衡と40年ぶりに再会し旧交を温めた。
秀衡は奥州藤原氏の三代目としてみちのく一帯を統治し、鎮守府将軍という官位にもあった。源平合戦によって平家が滅亡したこと、義経への追討令と逃避行、東大寺が戦火を被ったこと、これからの天下の趨勢など二人は話し合ったことと思われる。

柳之御所遺跡
柳之御所遺跡

重源上人からの沙金奉納の勧進を秀衡が承諾してくれたので、西行は東大寺大仏の再建という使命を果たすことができ安堵したことと思われる。
一方秀衡は義経を育てた軍略家でもあるので、いずれ頼朝が奥州に侵攻してくることをこの時すでに予見していたのかも知れない。
北上川の近くにある柳之御所は代々の藤原氏が政治を執り行う政庁であり客人を持て成す館でもあった。現在では建物は消失して広大な屋敷跡だけが残っている。そこに立って眺めていると、御所の奥の間で西行と秀衡の二人が語り合っている姿がまぼろしのように目に浮かぶ感覚を覚えた。

西行法師肖像画
西行法師肖像画

その後伊勢の草庵に戻っていた西行は、藤原秀衡が病没したこと、間もなくして源義経が藤原泰衡に襲われ自刃したこと、そして源頼朝の鎌倉軍の攻撃によって藤原四代の治世が滅亡したことを知る。
人の世は諸行無常であるという思いは更に強く深まったものと思われる。西行はほどなく河内・弘川寺に移り住み、この寺で七十三年の生涯を静かに閉じた。
    
      ねがはくは花のもとにて春死なむ
               そのきさらぎの望月のころ

弘川寺の桜
弘川寺の桜

終生愛した満開の桜のもとで、穏やかに死にたいという願望が込められた歌である。西行はかねてからの願いのように、桜花と望月と釈迦入滅とが一つに重なる二月十六日(旧暦)に入寂した。
西行は生涯にわたり厳しい修行生活と修験の旅を続け、煩悩のない涅槃の境地をめざした。しかし絶え間ない戦乱と流血の惨状に接し、親しい人たちの浮沈と逝去を目の当たりにして、憂いと哀しみは拭い去ることはできなかったのではないだろうか。この歌には西行の桜花への想いだけではなく、心穏やかに静かに永眠したいという諦観と解脱の想いが込められているように感じられる。

西行の事跡は八百年の時空を超えて、西行物語・西行物語絵巻に語り継がれ、能では西行桜・遊行柳・江口などが演じられている。新古今和歌集・千載和歌集・山家集などに載る和歌は多くの人々の心の琴線に触れ今も愛唱されている。

次回は松尾芭蕉のみちのくへの深い想いと奥の細道の旅にとつづく。

掲載日:2022 年 6月17日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)

 追憶の道 みちのく紀行 1

野村邦男

  
東京駅を出発した東北本線の列車はひたすらに北に向かって走行する。
関東平野を過ぎて福島・白河に入ると車窓から見える景色が変わる。
遠くに安達太良山、吾妻山、蔵王山の山並が連なり、どこまでも美しい田園風景が広がる。

1 安達太良の山並
安達太良の山並

初夏には瑞々しい青田が、秋には黄金色の稲穂が稔る。

2宮城野の田園風景
宮城野の田園風景

仙台、一関、平泉、盛岡を経由して、さらに鉄路は北上を続け青森にまで至る。
みちのくは古代からからの呼称であり、ほぼ現在の東北地域を指している。
また、みちのくは奈良、京都、鎌倉、江戸といった政治の表舞台とは違った歴史を繰り広げた地域であり、独自の文化と美しい自然が織りなす風土である。
奥州藤原四代の盛衰と源義経の光芒、西行法師と松尾芭蕉のみちのくへの深い想いの旅路、宮沢賢治の独創的な作品と精神世界に触れる旅に出ることにした。

みちのくの歴史と平泉文化

みちのくを旅するにあたり、平安期から鎌倉期における奥州・出羽一帯の歴史を知りたいと思った。
かつて、みちのくは奈良・平安時代の人々からは蝦夷(エミシ)と呼ばれ辺境の地、
異境の地とされていた。
大和朝廷は8世紀前半に国名を日本とし、天皇を頂点とした律令制による統治体制を拡充していた

3平安期の行政地図
平安期の行政地図

近畿を中心にして九州・山陽・四国・北陸・中部・関東を支配下に治めたが、福島白河以北の奥州・出羽地域は統治体制が及ばない地域であった。
この地域を征服し統治下におくために朝廷は度々軍を動員して支配しようとした。平安初期には坂上田村麻呂を総指揮官として大軍を送り込み、エミシの族長であるアテルイが指揮する先住民との闘いを度々繰り広げた。
田村麻呂は天皇から征夷大将軍という軍事部門の最高職を任命されていた。

4坂上田村麻呂
坂上田村麻呂

征夷には同じ日本列島に生活する人々を夷狄(いてき)即ち外敵として攻め滅ぼすという意味があった。それ以来、征夷大将軍に任ぜられることが武家部門の長として最高の権威を示すものとなり、平安期から徳川15代将軍に至るまで千年以上にわたり続けられてきた。幕末には攘夷論が台頭し、本来の「夷」である外敵・欧米列強に立ち向かうことになった経緯がある。
「征夷」には歴史の光と影が宿っているように思われる。

平安時代のみちのくは地域ごとの豪族が、その領地の保持、拡大のために紛争を繰り広げていて、平安後期になると陸奥国で前九年の役が勃発した。
奥州の俘囚の長である安倍一族と朝廷派遣の源頼義軍との九年間にわたる戦いであったが、頼義・義家父子の軍勢と出羽の清原一族とが連合した同盟軍が勝利した。
20年後、再び後三年の役が引き起こされた。

後三年の役絵図
後三年の役絵図

奥羽を支配した豪族清原一族の後継をめぐる内紛による三年間の戦であった。奥六郡の三郡の支配者にすぎなかった藤原清衡(きよひら)は、陸奥守であった源義家の支援を得ることにより、戦に勝利し陸奥・出羽全域の実質的な支配者となった。

1089年陸奥・出羽全域の支配者となった藤原清衡はみちのく統治の中心を平泉に置いた。

藤原清衡
藤原清衡

戦乱が続いていたみちのくを平穏な地にすることが清衡の第一の政治課題であった。そして蝦夷(エミシ)と呼ばれた辺境の地を京都、関東と 並ぶ第三の勢力地域にすることにあった。
そのために藤原三代にわたり沙金、良馬、絹織物などの殖産に努め財政基盤の拡充を図った。
特に、奥州藤原一族のみちのく支配には金の産出が大きく貢献した。

平安後期のみちのく勢力図
平安後期のみちのく勢力図

古代・中世の日本における沙金のほとんどは平泉周辺及び岩手南部から宮城北部にかけての地域から産出されていた。金の精錬技術のない時代には沙金から金を取り出すのが最も有効な方法であり、山岳地帯や河川流域の鉱脈から地表に出ている沙金を容易に採取することができた。
藤原氏一族は採取した沙金によって財政が豊かになり、みちのく一帯の支配力を拡大することになった。
更に平安末期の保元平治の乱など不安定な政治状況の中で、奥州が100年間にわたり国内でも独立した勢力圏を形成することができたのは沙金による財政が大きく貢献していたものと思われる。
ちなみに、江戸時代に直轄領として開発された佐渡金山は徳川幕府の大きな財政基盤となった。

次に、藤原一族は京の都に比肩するような仏教の王都を平泉につくることを目指した。
初代清衡は中尊寺を、二代基衡(もとひら)は毛越寺(もうつうじ)・観自在王院を、三代秀衡(ひでひら)は無量光院を建立した。
阿弥陀如来の信仰と西方極楽浄土に往生することを願う浄土思想に基づくものである。

中尊寺金色堂
中尊寺金色堂

清衡は中尊寺建立にあたり、幾多の戦役で亡くなった人々を敵味方なく弔うという願文を納めている。
いずれも広大な伽藍には浄土庭園と多くの塔頭、僧房が築造され、中でも金色堂は黄金に輝く仏像をはじめ装飾品は高度な技巧と貴重な材料によって造られていた。
1189年鎌倉軍の攻撃によって藤原三代が築いたみちのくの支配体制は消滅し、仏教文化の建造物も中尊寺を除きことごとく灰燼に帰してしまった。

毛越寺浄土庭園
毛越寺浄土庭園

しかし、800年という長い年月の風雪と激動する時勢に耐えて平泉の精神文化は命脈をつないできた。
2011年、ユネスコは中尊寺、毛越寺、観自在王院跡など平泉の仏教文化と遺跡群を世界文化遺産として登録した。
平泉の文化遺産の数々を巡り目の当たりにして、人の世の栄枯盛衰は常なるものではあるが、真に価値があり普遍性を持つ文化は永続するものであることを改めて認識した。
そして、みちのくの一地域の文化に留まらず、世界の人々に共有される文化遺産にもなったことに感慨を覚えた。

奥州藤原四代の盛衰と源義経の光芒

東北本線の平泉駅で下車し駅前の広場から眺める景観は、地方都市のどこにでもあるようなビルも商店街も見られない。
近代化以前の昔と変わらないような状景が静かに広がっているばかりであり、ところどころで遺跡の発掘調査が行われている。
駅から中尊寺までは歩いて行ける距離である。道の途中の東側に高館に向かう石段があり、登っていくと高館の丘の頂に出る。
この高館の丘からは眼下に北上川のゆったりとした悠久の流れを望み、はるか彼方には北上高地の山々が見える。

北上川
北上川

平泉の中心部を眺めると、中尊寺の伽藍、柳之御所跡、毛越寺、無量光院、観自在王院など藤原三代が築いた仏教王土がまぼろしのように目に浮かぶ。
平安末期は天皇・公家による摂関政治から武家政治に大きく転換する時期であり、幾多の戦いが繰り広げられた。
平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は東国に逃れる途中で謀殺される。

平治の乱絵巻
平治の乱絵巻

義朝の三男頼朝は伊豆に流され、九男義経は洛北の鞍馬寺に預けられる。
義経は鞍馬の山中で武芸に励み強靭な武人に成長した。16歳の時に鞍馬寺を出て、奥州平泉の藤原秀衡を訪ね庇護を求めた。京と奥州を往来し沙金の有力な商人である金売り吉次が、義経と秀衡とを結びつけたと伝えられている。
義経の並々ならぬ武芸の力量に感服した秀衡は、自分の子息以上に大事に遇し、21歳になるまでの5年間、膝下で戦の戦略戦術をも教え込んだものと思われる。
頼朝が伊豆で平家打倒、源氏再興の旗揚げをすると直ちに平泉から馳せ参じ、富士川合戦の黄瀬川の陣にて初めて異母兄弟が対面することになった。

源義経
源義経

頼朝は当時政情混乱の京の都を支配していた木曽義仲の征伐を義経に命じ、宇治川の戦いで義仲を討ち果たした。
次に平家追討軍の指揮官となった義経は一の谷鵯越の戦闘、屋島の戦い、壇之浦の海戦において勇猛果敢な戦術を駆使して勝利を治め、平家を滅亡させた。
源氏の棟梁としての権力を手中にした頼朝は、義経が朝廷から検非違使・左衛門少尉の官位を頼朝の許可を受けることなく受領したことに怒った。

源頼朝
源頼朝

また義経の武将としての並外れた力量に恐れを抱いていた頼朝は、義経の平家打倒の武功を一切認めず、逆に追討する指令を出す。更に抹殺するという過酷な措置を執拗に次々と発したため、義経は京から吉野、北陸、東北など逃亡を続け、最後は奥州藤原秀衡に庇護を求めた。
秀衡としては義経を庇護すれば頼朝の攻撃を受けることは覚悟の上で、義経一行を受け入れた。

藤原秀衡
藤原秀衡

間もなくして病魔に襲われた秀衡は臨終の間際に義経と実子の泰衡、国衡を呼び、秀衡無き後は義経を総大将とすること、一族結束して鎌倉・頼朝に抗戦することを遺言とした。しかしその後、頼朝の脅しに屈した泰衡は義経を夜襲して殺害してしまう。
衣川の館にいた義経は妻娘と共に自刃し、弁慶ほか従者たちは抗戦むなしく全員が討ち死にした。
頼朝の狙いは義経の抹殺だけでなく、東北一帯に巨大な勢力を築いてきた藤原一族を滅亡することにあった。義経殺害後ほどなく頼朝は28万という大兵力を三方から平泉に向けて進撃して瞬く間に泰衡をはじめ一族の命脈を絶った。
 ここに奥州藤原四代・百年の支配体制はまぼろしのごとくに消滅した。
鎮守府将軍職にあった奥州藤原王国を滅亡させることによって、名実ともに全国の武家を統括する征夷大将軍となったということができる。
 1192年、武家による本格的な政治・軍事の統治体制である鎌倉幕府が樹立された。

高舘の丘には義経を祀る小さな社がある。

高舘の義経像
高舘の義経像

平家を滅亡させた日本史上際立つ英雄の社とは思えないような質素なものであり、鎧兜を身に着けた義経の座像が祀られている。江戸の初期仙台藩主が義経を偲び祀ったものである。
義経像の視線は遥か彼方の鎌倉の方に向けられているように見える。波乱に富んだ戦の天才義経は無念の想いを残して31歳という短い生涯をこの北の地で閉じた。義経像を見ていると、人の世はまさに有為転変・諸行無常であることに感じ入った。
しかし源義経という武将の命は失われても、800年経っても多くの日本人の心にはいつまでも面影と活躍は生き続けている。
その生涯は史書の「吾妻鑑」をはじめ、平家物語、源平盛衰記,義経記などで語り継がれ、能の「屋島」「安宅」、歌舞伎の「勧進帳」「義経千本桜」など多くの演目が今日まで演じ続けられている。

歌舞伎・勧進帳
歌舞伎・勧進帳

黄金の国ジパングから東方見聞録、新大陸発見へ

万葉集の最も著名な歌人であり、大和朝廷の各地の国司をも勤めた大伴家持は、
みちのくの黄金についての和歌を詠んでいる。
 
    すめろぎの御代栄えんとあずまなる
                みちのく山にくがね花咲く

みちのくの黄金は北の辺境の地に豊かな文化を生み出した。
中尊寺に向かうなだらかな月見坂を登って行くと紅葉に彩られた境内にたどり着いた。
広い境内には本堂、金色堂、阿弥陀堂、釈迦堂など多くの仏堂が配置されていて、一番奥には白山神社と茅葺屋根の能舞台がある。
ほとんどの建物が戦火によって失われその後再建されたものであるが、中尊寺の金色堂だけは奇跡的に戦火と火災を免れ、900年後の今日まで荘厳な姿を残している。
金色堂は国宝とされ、仏像から須弥壇、主柱、装飾品に至るまですべて金箔で覆われ金色に輝いている。

黄金に輝く金色堂
黄金に輝く金色堂

本尊の阿弥陀如来像はじめ観音勢至菩薩、地蔵菩薩などの仏像は京から招聘された仏師雲慶らの高度な工芸技術によって造られたものである。金色堂の造作全てに金箔、漆、蒔絵、螺鈿が施されていると共に、海外から調達した夜光貝、象牙、犀角など大変珍重な材料が使用されていることに驚かされる。

奇しくもこの平泉の黄金文化が黄金の国ジパングとしてヨーロッパに広く知られるようになる。
マルコ・ポーロが東方見聞録において、アジア大陸の東端の海中に黄金に輝く島国があると記述したことから、当時のヨーロッパの人々に関心を呼び起こすことになった。
マルコ・ポーロはヴェネツィアの商人であり、若いころから父親・叔父と共に長期長途のキャラバンを重ね、元王朝はじめ多くの国との交易を行っていた。

マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロはヨーロッパから中東、中央アジア、中国までの旅することにより、シルクロードの各地域の政治・経済・社会事情に精通し、多くの情報を持っていた。
 中国では、ジンギス・ハーンが蒙古高原から急速に勢力を増大し版図を拡大し、1279年に南宋を滅ぼして元王朝を樹立した。時を経て元王朝にはフビライ・ハンが三代皇帝の座についていた。
マルコ・ポーロは旅で得た情報をフビライに進言することにより重用され、政治官を任命され臣下として働いた。17年間中国に滞在し中国の各地と東南アジアの国々を訪れ調査活動を行っている。

フビライはかねてより日本について強い関心があり、調べさせていたことが想像され、元王朝の要人の間でもいろいろな情報が交わされていたものと思われる。
 マルコ・ポーロは実際のところ日本を訪れていないが、そうした情報に接したことを素材にして東方見聞録に黄金の国ジパングを記述したものと思われる。記述の内容は正確なものではないが、その概要は以下のように綴られている。
「ジパングは東海にある大きな島で、大陸から二千四百キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で物資にめぐまれている。

東方見聞録の行程図
東方見聞録の行程図

偶像を崇拝し、どこにも属さず独立している。黄金は無尽蔵にあるが国王は輸出を禁じている。
宮殿の屋根はすべて黄金でふかれており、宮殿内の道路や部屋の床も純金の板をしきつめている。窓さえ黄金でできているのでその豪華さは想像の範囲をこえているのだ。
また、見聞記には元寇のこともかなり詳しく記述されている。
「フビライはこの島の金や富のことを聞いて占領する計画をたて、実際に軍船と歩兵・騎兵の大軍を向かわせた。しかし嵐のために艦隊が難破してしまい撤退した」というような内容が記されている。

マルコ・ポーロが故郷ヴェネツィアに戻り1298年に発行された東方見聞録は当時のヨーロッパ人に多くの影響を与えた。
その中でもこの見聞録に特別な関心を持った人物がクリストファー・コロンブスである。

クリストファー・コロンブス
クリストファー・コロンブス

コロンブスは見聞録を熱心に読み、大西洋を西回りの航路によってインド・中国そしてジパング島へ到達するとことを想定し、ジパングの黄金を獲得するという計画を立てたと言われている。1492年スペインのイサベル1世とフェルナンド2世の支援を得て3隻の船隊で航海に出る。
航海中の日誌には何度も黄金の島ジパングを目指していること、そのための進路を模索していたことが記されている。

コロンブスの4度の航海図
コロンブスの4度の航海図

3カ月の航海を経て10月に中米のサンサルバドル島に到着した。コロンブスは4度大西洋を渡る航海を行うが、最後まで中米の島がジパングの島と思い込んでいたと云われている。
しかし、結果としてジパング島の発見ではなくアメリ大陸の発見という世界史に刻まれる偉業を成し遂げたことになった。
日本列島の平泉を中心とした小さな地域が沙金を産出し黄金文化を築いたことが、コロンブスのアメリカ大陸発見にまでつながっていたことに興味は尽きない。
金色堂の堂内に立って拝観していると、金色に輝く仏像や工芸品が世界の大航海時代の幕開けにまで繋がっていたことに感動を覚えた。

{次回は西行法師と松尾芭蕉のみちのくへの深い想いと旅路にとつづく}

掲載日:2022 年 4月18日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)






牧陵歳時記 十二月 

野村邦男

十二月は昔から師走と呼ばれているように、年の瀬を迎え忙しさを感じる月である。
一年間の生活や仕事を整理し、新たな年を迎える準備をする月でもある。
寒さが一段と増し日暮も早くなり夜の時間が長い日が続くが、冬至(今年は22日)を境にして昼間の時間が徐々に伸びるようになる。
紅葉・黄葉で色づいていた落葉樹の落葉が舞い散り、野山は冬枯れの姿に変わる。
サザンカ、寒ツバキ、スイセン、寒ボタン、シクラメン、ポインセチアなど冬の花が彩りを添える。
水辺ではカモ、カイツブリなどの水鳥が静かに動きまわる。寒さが加わるとネギ、ハクサイ、ダイコンなど冬野菜がうま味を増し、ブリ、フグ、アンコウ、カニ、エビなど魚介類の旬を味わうことができる。
寒い夜には家族や仲間と寄せ鍋、魚すき鍋、おでんなどを囲み団欒するのも
楽しいものである。
八百万の神と仏を信奉する日本人にとって、クリスマスは宗教行事というよりはクリスマスツリーを飾り、ケーキを食べ、プレゼントを交換する楽しい行事となっている。
年末が近づくと注連飾りや門松を立て、お節料理をつくり、餅つきをして正月を迎える準備をする。
大晦日には年越し蕎麦を食べ除夜の鐘を聞くのが習わしとなっている。
横浜港では停泊中の大小さまざまな船が元日午前0時になると一斉に汽笛を
鳴らし新しい年の到来を告げる。

港町に賑わい戻る師走かな

横浜元町

横浜中華街3

この2年間新型コロナ感染症の影響であらゆる活動や生活が制約されてきた。
ファッションの先端をいく元町も国内最大の中華街も人の往来が減少し閑散とした状態が続いていた。最近、ようやく訪れる人も増えて賑わいを取り戻しつつある。
来る年はコロナ禍が収束して安心できる日常になることを願うばかりである。                          

                                 
                                  

讃美歌の流るるチャペル聖誕祭

教会のクリスマス

12月の街中はクリスマスツリーやイルミネーションで飾られ、セールやイベントが行われる。一方、山手地区ではキリストの聖誕を祝しカトリック教会ではミサ、プロテスタント教会では礼拝が執り行われる。聖堂ではオルガンと弦楽が奏でられ、讃美歌が歌われる。もろびとに平穏な日々が訪れるよう祈りが捧げられる。
                                    
                                   
                                   

冬紅葉警策ひびく禅の寺

円覚寺・居士林

北鎌倉の円覚寺は北条時宗によって創建された臨済宗の寺であり、禅の修行道場である。一般人も大方丈、居士林などで行われる坐禅会に参加することができる。坐禅中に煩悩に捉われていると、警策によって肩を打たれ、その音は静寂な堂内にひびく。凛とした境内には紅葉が控えめに彩りを添えている。

牧陵歳時記として俳句と画像のコラボで1月から12月まで月ごとに横浜・神奈川地域の自然の景観、風土・風物の状景、人々の生活、動植物の命の営みなどを綴ってきました。季節が春夏秋冬と巡り、海の幸・山の幸、多種多様な生物そして緑豊かな自然環境によって私たちの生活に潤いと安らぎがもたらされていることを知り、大切にしたいものと思います。
しかし、社会の急激な変化によって自然環境の破壊が進み、地球温暖化による異常な気候変動と自然災害の脅威が迫っています。また、新型コロナウイルスをはじめ感染症によるパンデミックの危機にも曝されています。
世界中の人々の共通課題であるSDGsが前進できるように、また持続可能な環境を保全するためにも、私たちの日々の生活の中で改善できることを一つひとつ実行して行くことが必要であると改めて思います。

掲載日:2021 年 12月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





牧陵歳時記 十一月

[野村邦男]

十一月は晩秋から初冬に季節が移る時節で、暦の上では7日が立冬。
朝晩の寒さが増してくるが、晴天の日は小春日和と云われるように温かく心地よい。
一方、木枯しが吹く日には冬の訪れを肌に感じる。
イロハモミジ・ハウチワカエデは紅葉に、イチョウ・カツラは黄葉に色づく。
山里や渓谷は錦織なす紅葉・黄葉で美しく彩られ、紅葉狩りに出かける気分になる。
菊は華麗な大輪から路傍の野菊にいたるまで多種多様、古来より人々の生活に
彩りを添えている。初冬にはサザンカ・ツワブキ・シクラメンなどの花が咲き、ナンテン・センリョウ・マンリョウ・ピラカンサなどが赤い実をつける。
ミカンは橙色に熟し食べ頃を迎え、ユズやスダチは食材に香りを添える。
ネギ・ハクサイ・ダイコンなどの冬野菜は寒くなると柔らかくうま味が増してくる。
冬の渡り鳥であるマガモ・ユリカモメなどは水辺に、ツグミ・ジョウビタキなどは野山に生息地を求め飛来する。
この秋に収穫した酒米で醸造された新酒や蕎麦の実を挽いて打たれた新蕎麦には格別な香味があり、新鮮な風味を楽しむことができる。
3日は文化の日。戦後、新憲法が公布され、自由と平和を愛し文化をすすめる日として定められた。芸術・文芸・工芸・芸能などに親しみ、時には美術作品に触れ、音楽を聴き、文学書を読むのもいいものである。
15日は七五三の祝いの日であり、男児・女児は家族と共に神社に参拝し健やかに 讃美歌の流るるチャペル聖誕祭成長することを祈る。

ユリカモメの目で見る港今むかし

現在のみなとみらい21の景観
現在のみなとみらい21

造船所・操作場跡地の全景
造船所・操作場跡地

かつての横浜造船所の状景
かつての横浜造船所

みなとみらい21エリアにはランドマークタワーをはじめホテル、オフィス、国際会議場、美術館など壮麗なビルが建ち並んでいる。このエリアはかつて横浜造船所や国鉄高島操作場であったが、半世紀ほどの間に跡地を整備し開発が進められ現在のような姿になった。ユリカモメは大陸から毎秋飛来する渡り鳥である。
年ごとに変貌する港の景観を50年前も現在も鳥の目は見ている。
    

銀杏黄葉港大路を染めにけり

山下公園通りの銀杏黄葉
山下公園通りの銀杏黄葉

日本大通りは明治初期に造られた日本最初の西洋式街路で、幅の広い道路の両側には
銀杏の木が植えられている。県庁(キングの塔)、開港資料館、地方裁判所など
歴史的建造物と相まって銀杏の黄葉は美しく映える。
マリンタワーやホテルニューグランドなどが建ち並ぶ山下公園通りは銀杏並木の黄葉によって黄金色に染められる。
     

渚ゆく冠雪の富士眺めつつ 

江ノ島と冠雪の富士山
江ノ島と冠雪の富士山

鎌倉由比ガ浜から稲村ケ崎、七里ガ浜、腰越を経て江ノ島まで海辺を歩いて
行くことができる。穏やかな波が打ち寄せ、爽やかな潮風が通う砂浜は心地がよい。
青い海の彼方に冠雪した富士山の秀麗な姿を眺めながら、渚を歩みゆくと身も心も
解放されるような気分になる。

掲載日:2021 年 11月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





牧陵歳時記 十月

[野村邦男]

十月は天候と気温が比較的安定し、活動しやすい爽やかな時候となる。秋晴の日が多く、野山も秋の色合いが増してくる。
澄み渡る夜空に十三夜の月(今年は18日)を眺めると秋が深まっていることを感じる。
秋を代表する菊、萩、コスモスなどが庭や野原を飾り、芒の穂が風に揺れる様子に野趣を感じる。
カエデが紅葉に、イチョウは黄葉に色づき始める。
田んぼでは収穫後の天日干しの稲架や案山子の姿が見られる。
この秋収穫した新米が店頭に出回るようになる。
新米の炊き立てのご飯は、美味であり、栗ご飯や松茸ご飯も秋ならはの味覚である。
畑ではサトイモ、サツマイモ、カボチャが収穫の時期を迎え、柿、
林檎など果物が食べ頃になる。
渡り鳥が遥か遠い地域から海を越えて飛来し、都会の公園や里山でもカモ、ツグミ、ヒワ、ヒタキなどを見かけるようになる。
十月には秋祭や収穫祭が行われ、運動会、学園祭、芸術祭など様々な行事が開催される。この時期、コンサートホールで音楽を聴き、
美術館に出かけ芸術作品を鑑賞するのもいいものである。

秋うららジャズの流るる港町

2021-05-07 波止場のセッション2

港ヨコハマはジャズが似合う街である。幅広い世代のジャズ愛好家達によって多彩なバンドが多数編成されている。
例年十月中旬にはジャズプロムナードが開催され、波止場、公園、
広場、ジャズハウスなど街全体がステージとなりライブ演奏される。
プロ・アマの奏者と観衆が一緒になって軽快な音楽を楽しむ。

星月夜コンビナートの煌めきて

コンビナートの夜景2

京浜工業地帯は戦後の経済発展に大きな役割を果たしてきた。
多くのプラントをつなぐコンビナートは昼夜稼働して、さまざまな
生活用品や工業製品を生産している。
月明りのない新月の頃の夜空が星明りで明るく見えるのが星月夜。
天空の悠久無辺の星の輝きと地上の現代文明のコンビナートの
煌めきが響き合っているように見える。

    

コスモスの彼方に海と山並と

吾妻山の眺望2

大磯は潮風が心地よい湘南の地であり、海辺の近くには西行法師が
和歌を詠んだ鴫立庵や島崎藤村が晩年を過ごした旧居がある。
秋にはハイキングコースの吾妻山の山頂に色とりどりのコスモスが
咲き乱れる。眼下に相模湾の青い海が広がり、遠方には箱根から
伊豆へと連なる山並が見える。

掲載日:2021 年 10月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





牧陵歳時記 九月

[野村邦男]

九月は気温が下がり大気も澄むことにより爽やかな季節となる。
野山には秋の七草(萩、尾花、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗)がそれぞれ
秋の風趣を感じる花をつける。芙蓉は華麗な花を咲かせ、曼殊沙華の花は畦道を飾る。
金木犀は開花すると芳香を漂わせる。田んぼでは稲が黄金色に稔り収穫の時を迎える。
稲穂の波の上を赤とんぼが飛びまわる光景は瑞穂の国の原風景である。
秋晴れの日に秋めいた野山を散策するのも楽しいものである。
秋は実りの時節、桃、葡萄、梨、柿などの果実の味覚を味わうことができる。
脂の乗ったサンマ、イワシ、サバ、サケなどはうま味が増してご飯やお酒がすすむ。
今年は21日が十五夜で、澄み渡る夜空に仲秋の名月を眺めることができる。
日本人は月に特別な情感があり、古来より月を愛でる月見の催しを行ってきた。
芒の穂、新芋、団子などを供え、名月を眺めながら雅楽を奏で和歌や俳句を詠む風習は
現在も受け継がれている。
23日は秋分の日であり、この日を境に昼よりも夜の時間が長くなり日暮れが早くなる。
日が暮れるころにはコオロギ、スズムシ、マツムシなどが鳴き出し、その音色を聞いていると気持が癒される。戸外に出て虫時雨を聞きながら、心静かなひと時を過ごすのもいいものである。

秋 麗 の 港 見 守 る 赤 灯 台

横浜港赤灯台
横浜港赤灯台

横浜港の真ん中にある赤灯台は港のシンボル的な存在である。1896年内防波堤の
先端に構築された灯台で、外国船が安全に入港するための目印である。
港湾の建造物や景観が大きく変貌する中にあって、赤灯台は100年以上にわたり
昔のままの姿で港の安全を見守っている。白灯台は破損したため氷川丸の近くに保存
されている。

天 高 し コ ン テ ナ 吊 る す 大 ク レ ー ン

ガントリークレーン
ガントリークレーン

かつては個々の貨物の積み下ろしをする貨物船がメインであったが、
現在はコンテナ船が主体となっている。
1960年代以降、本牧ふ頭、大黒ふ頭、南本牧ふ頭が構築され、
多くの巨大なガントリークレーンが稼働している。トレーラーから
ガントリークレーンがコンテナを吊り上げ貨物船に乗せる作業は実にパワフルでダイナミックである。

十 五 夜 に 耀 ふ 塔 の 浮 か び け り

三渓園観月会
三渓園観月会

仲秋の名月の頃に三渓園では観月会が催される。丘の上にある三重塔を照らすように昇る十五夜の月は美しく幻想的である。
琴、琵琶、ピアノなどが演奏され、舞踊が演じられる。
月の光が降り注ぐ大池、臨春閣、聴秋閣、月華殿には風雅な雰囲気が醸し出される。
名月を眺めながら逍遥していると幽玄な境地にいるような心地になる。


掲載日:2021 年 9月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)






    

牧陵歳時記 八月

[野村邦男]

八月は夏が終わり秋が始まる時節。暦の上では8月7日が立秋で、残暑が厳しいながらもだんだんと秋めいた気候となり、朝晩は涼しさを感じるようになる。
夏空を支配していた入道雲の勢力が弱まり、いつの間にかいわし雲のような秋の雲に姿を変える。一方、南方海上で発生した熱帯低気圧が台風となり日本列島に次々と襲来し洪水など甚大な災害をもたらす。野原ではコスモス、ハギ、キキョウ、ツユクサなど秋の草花が咲き始め、蝉はアブラゼミからヒグラシへと主役が交代し、シオカラトンボや赤トンボが飛び交うようになる。夕方になるとコオロギ、マツムシ、スズムシなどが鳴き出し秋の気配を感じる。店頭には秋の果物である梨、葡萄、桃が並ぶ。
お盆には各地各家庭で祖先の霊を迎える法要、墓参、盆踊りなどさまざまな行事が行われる。都会に生活する多くの人々は故郷に帰省する。
八月は日本人にとって戦争と平和について考える特別な月である。
1945年8月6日は広島、9日は長崎に原爆が投下され多くの市民が犠牲になった日であり、毎年慰霊の式典が催される。15日は長期にわたる過酷なアジア・太平洋戦争が終結した終戦記念日であり、戦争の惨禍を振り返り平和を祈念する日である。

幾戦火くぐりし船の終戦日

戦時中の病院船・氷川丸
戦時中の病院船・氷川丸

博物館船として安らぐ氷川丸
博物館船として安らぐ氷川丸

氷川丸は戦前には太平洋航路の花形の貨客船であった。戦時中は海軍に徴用され病院船として戦火の激しい海域を幾たびも航海したが、奇跡的に沈没を免れた。終戦を迎え引揚船として多くの兵士及び海外在住の邦人を日本に輸送し、その後は外国航路の貨客船に復帰した。現在は山下公園の岸壁に係留され、戦争の荒波を乗り越えた史実を伝える博物館船として平穏な日々を送っている。

夏 草 や 首 都 防 衛 の 要 塞 跡

東京湾に浮かぶ無人島・猿島
東京湾に浮かぶ無人島・猿島

猿島の要塞跡
猿島の要塞跡

横須賀三笠公園から連絡船で10分ほどの沖合に無人島の猿島がある。
この島は大戦時には首都防衛のため大砲や弾薬庫が配備された要塞であった。戦争末期、東京・横浜を空襲する米軍爆撃機を撃墜するための高射砲が設置されていたが、まったく役に立つことはなかった。無謀な戦争の痕跡が東京湾に浮かぶ小さな島にも残されている。

焦土より再生の楠原爆忌

被爆・破壊された鳥居と楠 (2)
被爆・破壊された鳥居と楠

被爆・再生した楠
被爆・再生した楠

8月9日長崎に原爆が投下され一瞬の中に7万余の市民が犠牲となり市街地は焦土と化した。爆心地に近い山王神社の楠(クス)の神木も焼け焦げになったが、戦後地中の根から若木が萌え出し再生した。その苗木の一本が長崎市から川崎北部のこもれびの森に提供され植樹された。8mほどに成長した楠は原爆の悲惨さと人命の尊さそして植物の再生力を示している。


掲載日:2021 年 8月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





    
 

牧陵歳時記 七月

[野村邦男] 

七月は荒々しい気象の月である。前半までは梅雨前線の活動が続き、集中豪雨・雷雨・竜巻などによる自然災害が各地で発生する。梅雨が明けると一気に気温が上昇し、下旬には大暑の節気となり一年で最も暑い本格的な夏となる。
野山ではユリ、ヒマワリ、サルスベリ、ネムなどの花が咲き、水面にはハスやスイレン
の美しい花が咲く。早朝のアサガオの白、青、薄紅の花に涼しさを感じる。
雑木林では子供たちが好きなカブトムシ、クワガタが姿を現し、セミの鳴き声が聞こえる。セミの幼虫は地中で約7年過ごし成虫になってからわずか10日ほどの命を燃焼する。清流で育つアユ、ヤマメ、イワナは山里の風味があり、土用のころにはウナギを食べて元気をつける。冷えたスイカを割って大勢で食べるのも楽しいもの。
七月七日は七夕まつりで、夜空にきらめく夏の大三角形の星(ベガ、アルタイル、デネブ)を仰ぎ見て、牽牛織女の伝説に想像を巡らせる。川辺や海辺で打ち上げられる花火、庭先や路地での線香花火は夏の宵の風物詩となっている。
夏の夕べ、昔ながらの風鈴、すだれ、うちわ、打水などで涼をとりながらSDGsや省エネについて家族と話し合うのもいいものである。

黒船を見し玉楠のなほ青葉

ハイネの絵の玉楠 (002)

開港資料館の玉楠 (002)

1854年横浜村の浜辺、江戸幕府の役人とペリー艦隊の将官との日米和親条約の交渉の場所に一本の玉楠(たまくす)の木があった。(ハイネの絵に描かれている)
この玉楠は明治維新以降の横浜発展の歴史を見続けて来た。関東大震災、大戦下の空襲による被害を受けながらも、現在も開港資料館の中庭で青葉を茂らせている。  

緑陰の武家の文庫の奥深し

称名寺の庭園 (1) (002)

金沢文庫は北条実時によって創設された武家の文化・蔵書の館である。この文庫には鎌倉時代の肖像画、古文書、美術工芸品など多数の国宝と重要文化財が保存されていて、その奥深さに感銘する。隣接する称名寺の広大な庭園は質朴にして美しい景観を四季折々見せてくれる。

    

山頂より望む夏雲相模湾

大山からの眺望 (002)

丹沢山系の東端に聳える大山は、県内のどこからでもその端正な山容眺めることができる。江戸時代には阿夫利神社に参詣するために関東一円の人々が列をなして登った山である。1252mの山頂からは相模湾、江ノ島、三浦半島の雄大な景観を一望することができる。

掲載日:2021 年 7月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





牧陵歳時記 六月

[野村邦男] 

六月は梅雨の気候となり雨の日が多い。梅雨前線のもたらす雨によって稲の苗をはじめ夏野菜、草花は成長し、樹木は青葉を茂らせる。一方、集中豪雨や台風によって自然災害も発生する時節である。今年の夏至は21日で昼間の時間が最も長い日となる。
アジサイは雨がよく似合う花で、日ごとに色彩を変えるので七変化とも呼ばれる。
春に渡って来たツバメは子ツバメを育てるために餌を求め飛び回り、ホトトギスは明け方から晩まで特有の声で空を鳴き渡る。
水田でアマガエルがしきりに鳴き交す声を聞いていると、昔ながらの農村の風情が感じられる。夕闇がせまる頃、川辺や田んぼの畔でホタルがひそやかな光を灯しながら舞う姿は夏の風物詩である。
梅の実は古来より健康によい食品とされている。青梅で自家製の梅酒を作り、熟した実で梅干しを作り食するのも楽しみである。
畑で採れたばかりのトマト、キュウリ、ナスなどはみずみずしく美味い。
また、暑い日には冷素麺や冷奴など冷たい食味の食べものが欲しくなり、冷えたビールや冷酒は疲れた心身を癒してくれる。
6月2日は横浜開港記念日であり開港祭が催される。横浜の歴史と変遷を振り返り未来を考える日でもある。


   

ファンタスティック港にかかる虹の橋

港にかかる虹2

雨上がりの港の空にかかる虹は実に美しく幻想的である。
大型客船、ベイブリッジそして天空の七色の虹を眺めていると、自然界が
描く大気光学現象の壮大なパノラマを見るような感動を覚える。
Fantastic!と言う以外言葉が見つからない。



喧騒を離れし里の青田かな

寺家の青田

横浜の北西部寺家(じけ)エリアにはふるさと村がある。急激な宅地化が進展した中で、農村の営みと自然豊かな里山が残されている地域である。
田んぼ、野菜畑、雑木林などがあり、四季折々の移り変わりの様子を眺めることができる。今の時節は稲の苗が伸びた青田が美しい。



紫陽花に触れ来る電車海の風

江ノ電と紫陽花

江ノ電は鎌倉と藤沢の間を往復する。稲村ケ崎、七ヶ浜、江ノ島間は海沿いを走り、窓からは海の景観を眺められる。また、家並みの中を縫うように走る区間もあり、色とりどりの紫陽花に触れるが如く走行する。
地元の人々から愛され観光客からも親しまれている電車である。

掲載日:2021 年 6月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





牧陵歳時記 五月

[野村邦男]

二十四節気の暦の上で今年は5月5日が立夏であり、季節が春から夏へと移る。
気温は温暖にして大気は爽やかな風薫る時節となる。
若葉におおわれる公園や街路樹の木々の瑞々しい新緑の景観は美しい。
バラ、サツキ、ボタン、シャクヤクが色とりどりの花を咲かせ、水辺では花ショウブ、
カキツバタ、アヤメが咲き競う。
南方から渡ってきたホトトギスが鳴き声高く空を飛び回り、川辺には白鷺、青鷺を
見かける。野原では夏蝶のクロアゲハ、キアゲハがゆったりと舞っている。
田んぼでは田植えが行われ、畑にはナス、キュウリ、トマトなど夏野菜の栽培が始まる。
相模灘沖で獲れた初ガツオを味わうのも楽しみであり、初摘みの新茶の香気に初夏の風味を感じる。赤く熟したサクランボやイチゴは美味しい。
5月5日は端午の節句、男の子のいる家では鯉のぼりを立て、武者人形を飾り健やかな成長を願う。現在は子供の日として全ての子供の健全な育成と教育について社会全体で考える日でもある。



                           

港望む洋館のバラ咲き満ちて

イギリス館のバラ (002)

山手にはイギリス館、エリスマン邸、べーリック・ホールなどかつての外交官や貿易商の洋館が建ち並んでいる。港が一望できるイギリス館の庭園には色鮮やかなバラが咲き競う。港の見える丘公園、山下公園など港町全体がバラで美しく飾られる。



青春の丘の学び舎若葉風

緑校2

緑校1

緑高は長い坂を登った丘の上にある。創立以来百年近く経つが、そこには昔も今も青春があふれている。学び舎には三徳一誠(知・仁・勇・誠)の精神と自由闊達な気風が継承されている。勉学ばかりでなくスポーツ、音楽、文芸などクラブ活動も盛んである。



悠久の露坐の大仏薄暑光

鎌倉大仏 (002)

鎌倉大仏(国宝)は長谷の地に八百年近く坐しておられる。日本列島は古来より疫病・台風・地震・津波など絶え間なく災害に襲われている。大仏・阿弥陀如来像は自らの身を風雪・酷暑の中に置いて、衆生を慈悲の眼差しで見守りくださっている。

掲載日:2021 年 5月15日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





牧陵歳時記 四月

[野村邦男]

四月は二十四節気の清明と穀雨の時節、天地は明るく清々しい陽気となり春の雨が
農作物にも動植物にも恵みの水をもたらす。
雑木林の木々に芽吹いた緑の葉の彩りは瑞々しく、水辺の風に揺れるしだれ柳は美しい。野山にはつつじ・山吹・藤の花などが咲き、南方からつばめが渡って来て爽快に飛び回り、森の中では小鳥のさえずりが盛んになる。
食卓では、さくら鯛・さわら・さよりなど海の幸を食し、わらび・ぜんまい・たけのこなど山の幸を味わう。家族の団欒に草餅・桜餅・鶯餅など春の風味を楽しむ。
天気の良い日には春の草花に彩られた野山にハイキングに出かけ、潮風に吹かれ海辺を散策する気分にもなる。
四月は新しい年度の始まりである。大きなランドセルを背負った一年生が入学し、それぞれの学校では進級進学があり、学業を卒業した若者たちは新たな希望を抱いて社会に一歩を踏み出す。多くの企業では人事異動があり新しい職場での仕事がスタートする時節でもある。

   

風光るハマの埠頭のエコ風車

ハマウィング

瑞穂埠頭に巨大な白い風車「ハマウィング」がゆったりと回っている。再生可能エネルギーの風力発電設備であり、CO₂ゼロエミッションを実現するシンボルである。発電した電力から水素燃料を製造し自動車や船舶を走らすという未来のフロンティアを照らす燈台のようにも見える。



尖塔のクルスかがよう春の空

カトリック山手教会2

開港以来、多くの欧米人が来日・居留し文明開化が進められた。港の丘にはカトリック山手教会や山手聖公会プロテスタント教会などが建てられた。教会では礼拝など様々な宗教行事や結婚式が執り行われ、横浜市民にとって身近な存在となっている。その建築様式は荘厳にして美しい。



うぐひすやしばし休める鍬打つ手

多摩丘陵の里山3

戦後、横浜・川崎は高度成長にともない近郊の宅地開発が進められ緑地が失われた。北部丘陵エリアにはまだ里山が残されていて保全活動が続けられている。里山には森・雑木林・竹林・田畑があり多様な動植物が生息している。
この時節、小鳥たちの囀りに混じり鶯の美しい鳴き声を聞くことができる。

掲載日:2021 年 4 月17日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





牧陵歳時記 三月

[野村邦男]

三月になると日ごとに日差しが明るくなり暖かさが増してくる、春分の日を過ぎると夜よりも昼間の時間が段々と長くなる。
春の陽光と春の雨によって、多くの動物と植物は休眠から覚めて生命活動が活発になる。辛夷、椿、桃、木蓮などの花が次々に咲き出し、桜前線が南から北へ日本列島を染めて行く。野原では菫、蒲公英、雛菊、桜草などの草花が一斉に咲く。
土の中や落葉の下で冬を越した昆虫の卵や幼虫が成虫となって地上に現れ、紋白蝶、黄蝶が舞い、蜂が花の蜜を吸い飛び回る。雑木林では小鳥たちの囀りが盛んになり、藪からは春告鳥と呼ばれる鶯の美しい鳴き声が聞こえ、野原では雲雀が鳴き交す。
三月三日は雛祭、女児の健やかな成長を祈り雛人形と桃の花を飾る。
児童・学生は思い出の多い学び舎を卒業し、新たな希望を持って学校に進学し、社会に踏み出す時節である。田んぼでは田植えの準備が進められ、畑では種蒔きのための耕しが行われる。

春うらら港を望む丘のカフェ

港の丘からの展望

港の見える丘公園から港湾を一望することができる。大桟橋、氷川丸、ベイブリッジなどが間近に見え、海上にはマリンシャトル、タグボート、パトロール船などが航行している。港の丘の公園エリアには春のそよ風が通い、色とりどりの草花が咲き競い、近代文学館・大佛次郎記念館など文化的な雰囲気が漂っている。

占領の歴史をきざむ桜かな

根岸森林公園の桜2

根岸競馬場は戦後進駐軍の占領によって米軍専用のゴルフ場となり、その周辺は米軍将校の住宅地となった。占領が解除された後、広大な敷地は根岸森林公園として整備公開され市民憩いの場所になっている。かつての競馬場・ゴルフ場は満開の桜で彩られ、平和であることの有り難さを桜が教えてくれている。

花こぶし生糸運びし峠道

山里のこぶしの花

1859年に開港した横浜は生糸貿易によって急速に発展した。最大の輸出品である生糸は長野、山梨、群馬などで生産され八王子から町田を経由して横浜の港まで運ばれた。
生糸を馬の背に積み運んだ起伏の多い山道は「絹の道」と呼ばれている。こぶしの花はこうした山里に春の訪れを告げている。

掲載日:2021 年3 月15日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





牧陵歳時記 二月

[野村邦男]

二月は新暦(陽暦)のカレンダーではまだ冬となっていますが、古来より続く二十四節季の暦の上では立春の日(今年は二月三日)から春の季節が始まります。
日に日に日脚が伸び、陽射しが明るくなってきていることを実感します。
春の到来をいち早く告げる梅の花や菜の花が咲き出します。
秋に紅葉し落葉した桜の枝には沢山の花芽が付き、桃の木の蕾がふくらみ開花の準備を進めています。冬枯れに覆われていた野や山にも若草が萌え出し緑の色彩が増し、静まり返っていた雑木林でもメジロ、ホオジロなど小鳥たちがさえずりを始めます。
三寒四温と言われるように寒い日と暖かい日を繰り返しながら段々春らしい気候に移っていく様子が、如月(きさらぎ)と呼ばれる二月の季節感です。
冬の間家の中に籠りがちであった生活から抜け出して、野山や海辺を散策してみようという気分になります。

                

シーバスの描く航跡春立ちぬ

シーバスの描く航跡2

春の到来とともにベイブリッジの下を通り入港する船、出港する船の数が多くなる。
大桟橋、山下公園、赤レンガパークなどベイエリアには、春風に誘われ訪れる人が増えて賑わってくる。
港内を行き来するシーバスやクルーズ船の描く航跡にも春の気配が感じられる。

笛の音や塔を見上ぐる臥竜梅

三渓園の臥竜梅3 

梅の花は寒さが残る早春に咲き、その凛とした花姿と香りに魅了される。
古来より日本人に愛され、万葉集・古今集など和歌に最も多く詠まれている花である。
三渓園には白梅、紅梅、臥龍梅など様々な梅の木があり、丘の上に建つ三重塔と風趣に富んだ池と相まって美しい景観を奏でている。

菜の花や海のかなたに富士の峰

菜の花と冠雪の富士山2

菜の花の明るく黄色の群落は、冬枯れの野山にいち早く春の到来を知らせてくれる。
菜の花は菜種油としても春野菜としても食生活に浸透していて、温暖な地域で広く栽培されている。
三浦半島の大楠山の菜の花畑から海の彼方に冠雪した富士山を遠望することができる。

掲載日:2021 年2 月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





牧陵歳時記 一月

[野村邦男]

はじめに

一月から「牧陵歳時記」を掲載していただくことになりました。
日本には四季の循環する豊かな自然と多彩な風土があります。
春夏秋冬二十四節季が巡る中で人々は季節に合った生活を営み、暦に沿って
農耕・漁労、行事・祭事などを行ってきました。植物は時節に応じて花を咲かせ
実をつけ、動物は自然環境に適応しながら生命活動を営んでいます。
こうした季節と命の営みを言葉に表現したものが季語であり、長年にわたり
集積されてきた五千余の季語をまとめた書物が歳時記です。
俳句は季語と五七五という韻律をもとに詠まれる短い詩です。
江戸期には芭蕉、蕪村、一茶といった優れた俳人が俳諧の新たな道を拓き、
明治期以降は子規をはじめ多くの俳人が輩出し、誰もが詠み楽しむことが
できる俳句の魅力を広げました。現在では幅広い世代の男女そして社会人、学生、
子供に至るまでの多様な人々に親しまれ愛好される文芸になっています。
牧陵歳時記は、横浜を中心に神奈川県内の四季折々の景観や風物を俳句に詠むことが
できればと思っています。
俳句と画像を通して、牧陵会の皆さんに季節の状景や情感を共有していただければ
嬉しいです。

海と空染めて港の初日の出

港ヨコハマの初日の出 (002)
開港当時、寒村であった横浜は今では人口370万の国際港湾都市。
横浜港には世界中から客船や貨物船が往来し、世界の各地を繋いでいる。
ベイブリッジの彼方から昇る初日の出は荘厳である。

コロナ禍の収束祈る初詣

伊勢山皇大神宮の年始祭事 (002)
日本人は年の初めに全国各地にある神社や寺院に初詣をする。港を一望する
丘の上にある横浜の総鎮守、伊勢山皇大神宮でも祈りが捧げられている。
例年人々はさまざまな願いごとを祈るが、今年は全ての参拝者の共通の
願いはコロナ禍の収束である。

舞殿の翁言祝ぐ初神楽

鶴岡八幡宮の初神楽 (002)
鎌倉・鶴ケ岡八幡宮では正月の神事芸能として神楽を奉納する。
本殿下の舞殿で催され、翁が笛・笏拍子・和琴などに合わせて神楽を歌い
舞う。四方に向って一陽来復を願い幸多かれと祝いの言葉を唱える。
(言祝ぐの読みはことほぐ)

掲載日:2021 年1 月17日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





東アジア往来の道 博多見聞記後編

                              [野村邦男]
日本海と東シナ海を挟んだ戦争の世紀

福岡国際空港から北京、上海、大連、ソウル、台北などへ実に短時間で行くことができる。

上空からの対馬海峡の景観
上空からの対馬海峡の景観

飛行機の窓からは眼下に玄海灘、日本海、東シナ海の美しい海原が広がり、飛行ルートによって壱岐、対馬、五島列島、沖縄諸島などの島々を眺めることができる。日本と中国、朝鮮半島、台湾とはまさに一衣帯水という地理関係にあることがよくわかる。
これらの近隣の国々とは古代から人々の往来が盛んにあり、律令制など法による統治制度、稲作、鉄器、医術などの技能、そして仏教、文学、芸術などの文化を学び交流する関係にあった。
しかし残念ながら、白村江の戦い、蒙古襲来、秀吉の朝鮮出兵など近隣国との戦争がたびたび行われ、特にこの百年は日本海と東シナ海を挟んで大規模な戦争を繰り広げた世紀であった。明治維新後の日本は欧米の先進的な制度、産業、技術、文化そして軍事体制などを取り入れ近代国家の建設を進めた。

大日本帝国の最大勢力版図(1942年当時)
大日本帝国の最大勢力版図(1942年当時)

一方、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争を次々と引き起こし、中国、ロシアそして米国、英国という大国を敵国とする戦争の時代であった。また朝鮮と台湾の植民地統治の時代でもあった。日本ばかりでなく東アジア、東南アジア全域に計り知れない膨大な犠牲と悲惨な戦争惨禍をもたらした。
これらの戦争は遠い昔の歴史ではない。私たちの祖父母や父母の世代の人々全てが巻き込まれ、過酷な犠牲と理不尽な生活を強いられた最近の歴史です。
次代を担う若い人たちを含め現代を生きる私たちは、地理的にも近い東アジアの国々との戦争の経緯と真相を知り、平和について考えることが必要だと思います。

軍事国家への暴走と歯止めのない戦争の拡大

明治の新政府は欧米によって植民地にされることを防ぐために、国の基本方針として富国強兵・殖産興業を旗印に邁進することになった。
廃藩置県、徴兵制の発布、軍人勅諭、教育勅語そして明治憲法の制定により中央集権国家の体制を作り上げて行く。本来植民地にならないための独立国家としての体制づくりが、いつの間にか海外侵略と植民化を積極的に進める帝国主義体制に転換してしまった。
征韓論に始まった朝鮮半島に対する積極的介入の動きが、やがて李氏朝鮮への本格的な干渉となり清国との衝突にまで進展して行く。

日清戦争・旅順の戦い図
日清戦争・旅順の戦い図

1894年日清戦争が開始され、北洋艦隊との黄海海戦で勝利して戦勝国として旅順等南満州を占有することになった。その後、遼東半島や旅順・大連の支配を巡り、南下政策を進めるロシアと対立が激化する。
1904年には日露戦争が勃発する。黄海海戦、旅順攻落、奉天会戦等を経て日本海海戦で劇的に勝利したが、実情は国家財政逼迫の中、かろうじて勝利することができた戦争であった。

日露戦争・日本海海戦
日露戦争・日本海海戦

1905年ルーズベルト米大統領の仲介により日露講和会議が持たれた。
南満州の勢力範囲が確定し南満州鉄道が設立され、満州への進出支配が本格化する。

1911年中国では孫文による辛亥革命によって清朝が滅亡する。
1914年第一次世界大戦が勃発し、日本軍は青島を占領し袁世凱政府に対華21か条要求を出した。
1931年関東軍の暴走による柳条湖事件と満州事変が勃発する。中央政府意向を無視して軍部は満州全土を占領す。

満州国皇帝・溥儀
満州国皇帝・溥儀

日本は、清朝のラストエンペラー宣統帝であった溥儀(フギ)をかつぎだし、傀儡政府をつくり上げ満州国を樹立した。

満州国と日中戦争時の勢力地図
満州国と日中戦争時の勢力地図

その後、中国とは南京事件、上海事変、ノモンハン事件と次々に武力衝突を繰り広げ、1937年には軍部の策謀による盧溝橋事件を引き起こし日中全面戦争に突入してしまった。

二二六事件・反乱部隊
二二六事件・反乱部隊

抗日戦のために毛沢東の共産党軍と蒋介石の国民党軍との間で国共合作が成立し、中国軍の反撃によって戦争は泥沼化して行くことになった。
国内では1932年海軍青年将校らによる五・一五事件、1936年陸軍青年将校らによる二・二六事件が引き起こされた。数々のテロによって議会制民主主義が葬り去られ、軍に対する統制力がまったく機能しなくなる。
結果として統帥権を掲げた軍部の独断専行と暴走に対する歯止めが失われてしまった。

無謀なアジア太平洋戦争と途方もない戦争惨禍

満州事変から日中戦争へと拡大するのに伴い国際連盟からの脱退、治安維持法と国家総動員法の施行、全政党の解党と大政翼賛会の結成などが行われ、タガの外れた軍部主導の軍事国家体制に傾斜してしまう。
ヨーロッパでは1939年独裁者アドルフ・ヒットラー率いるドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発した。日本は正常な外交戦略が欠落し国際情勢を読み誤ったため、1940年に日独伊三国同盟を締結することになる。

日米開戦引き金 となった真珠湾攻撃
日米開戦引き金 となった真珠湾攻撃攻撃

そして無謀にも1941年ハワイ真珠湾を奇襲攻撃することにより、経済力、軍事力で世界最強のアメリカを相手とした戦争を引き起こしてしまう。
東南アジアでもマレー、シンガポール、フィリピン、ベトナム、ビルマ、タイなどの諸国にも侵攻し、戦線が無制限に拡大するアジア太平洋戦争となってしまった。

敗戦への転換点となったミッドウエー海戦
敗戦への転換点となったミッドウエー海戦

ミッドウエー海戦での大敗、ガダルカナル島、サイパン島、レイテ沖海戦での敗退、沖縄本島への米軍の上陸、主要都市への空爆、広島・長崎への原爆投下等悲惨な戦禍を経て、ようやく1945年8月ポツダム宣言を受諾し終戦を迎えることになった。

冷静に考えれば負けることが自明な全面戦争にどうして突入してしまったのか考えさせられる。
戦前の日本は、人口が7000万人、農業就業人口が5割を占める農業国家であり、生糸や綿製品が主要な輸出産業であり、石油や鉄鉱石などの資源が無い貧しい国であった。戦争相手のアメリカの国民総生産は日本の12倍の規模もあり、国力の差が歴然としていた。そして一般庶民の生活は昭和恐慌以来の経済疲弊によって貧窮する状況でもあった。

学徒出陣・壮行会
学徒出陣・壮行会

国家権力が、偏向した教育を強制し、学問の自由や思想信条の自由を奪い、報道・言論・社会活動を統制し、異論を封じる軍事第一主義的な軍国体制を作り上げた。結果として国家としての正常な統治機能を失い、議会も政府も軍部の独断的な戦争拡大方針を阻止することができなくなっていた。中国との戦争と並行して米国・英国という大国の連合国軍を相手に展望のないまま戦争を拡大することになった。
陸軍も海軍も統帥権を掲げて、無謀にして際限のない戦線拡大を押し進め、愚劣な戦略・戦術を強行して国家破滅の淵にまで至らしめた。そして結末は、全て国民が壊滅的で悲惨な犠牲を負うことになってしまった。

この戦争は日本ばかりでなくアジア諸国の人々にも計り知れない膨大な災禍をもたらした。日本人310万人を超える犠牲者そしてアジアの人々2100万人を超える犠牲者を出したきわめて痛ましい無謀な戦争であった。

原爆で焼き尽くされた広島市街
原爆で焼き尽くされた広島市街

戦争末期、米軍による都市部への空爆は熾烈を極めた。東京、横浜、名古屋、大阪など主要都市は焼夷弾で焼き尽くされ、大よそ31万人の一般市民が死亡し無数の人々が負傷した。

;長崎の原爆で死亡した幼子を背負い焼き場に立つ少年
長崎の原爆で死亡した弟を背負い焼き場に立つ少年

原爆投下によって広島14万人余、長崎7万人を越える市民が犠牲となった。そして多くの人が原爆後遺症のため現在に至るまで苦しめられている。
本土防衛の最前線となった沖縄戦では、一般住民の多くが戦闘員として戦わされた。

県民の四分の一が犠牲になった沖縄戦
県民の四分の一が犠牲になった沖縄戦

20万人もの住民・兵士が犠牲になり、沖縄県民の四分の一が死亡したという悲惨な被害を受けた。しかし、現在も沖縄は全国の米軍基地の7割を負担することを強いられ、さまざまな危険に曝されている。

敗戦時、海外に在住していた軍人・民間人の総数は660万人、そのうち引揚船で帰国した人は500万人に上った。
おびただしい数の若い兵士が戦場で命を落とし、無数の民間人が外地で死傷した。また満州の大地に残された多くの残留孤児、ソ連によってシベリアに強制収容された人々など過酷な境遇を強いられた。

戦争による犠牲者数の多さに胸が詰まるが、そこには一人ひとりの命があり、生活の営みがあり、家族の深い愛情と絆があったことを思うと更に胸が痛む。
狂いだした歯車を破滅するまで止めることが出来なかった日本という国家の失敗について真摯に考え、同じ過ちを繰り返さないことが現在生きている私たちに求められている。

朝鮮の植民地統治と大戦後の南北分断

日本は朝鮮半島の人々とは二千年にわたる交流の歴史を持ちながら、大戦後70年以上を経過しても国家間の良好な関係は築けないままに現在に至っている。
朝鮮の代々の王朝は中国と国境を接することにより、古代より中国王朝に朝貢するという従属的な関係にあった。
1392年に成立した李氏朝鮮は約500年続いたが、明朝及び清朝の冊封体制の中で属邦という位置づけにあった。日本は明治維新以降、朝鮮への介入を深めていくことにより清国との紛争の火種を広げることになる。
日清戦争は朝鮮の支配をめぐる日本と清国の覇権争いが原因となって引き起こされた。日露戦争も朝鮮半島と満州の権益を護りたい日本とその地域へ進出をもくろむロシアとの戦いであったと言える。
日露戦争の勝利に伴い日本軍が大韓帝国を軍事的に制圧し支配下に置くことになった。

朝鮮総督府に向かう伊藤博文
朝鮮総督府に向かう伊藤博文

伊藤博文が初代統監となり首都漢城(ソウル)に韓国統監府を設置し日本式の政治、経済、社会の仕組みを導入する。伊藤が朝鮮独立運動家安重根によって暗殺されたことを契機に、1910年には韓国併合に関する日韓条約が締結され、内政から外交に至るまで日本政府が統治することになった。その後代々の統監には陸軍大将が就任するということになり武断統治による植民地化政策を強行する。

京城ー釜山の鉄道起工式の状景
京城ー釜山の鉄道起工式の状景

朝鮮の人々は日本語の使用、教育勅語、神社参拝、創氏改名までも強要され、戦時中は国民徴用令や志願兵制度、学徒支援制度などにより日本国民と同様に戦争遂行に組み込まれた。
1945年の終戦によって日本の統治権は放棄されることになるが、35年間の日本による強権的な統治支配によって、朝鮮半島の人々の怨念は消えることなく現在まで続く要因となっていると思われる。

1948年大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立された。

朝鮮半島の南北分断
朝鮮半島の南北分断

1950年に勃発した朝鮮戦争によって多くの犠牲を払った上に、38度線を境界として南北二国に分断される状態となり深刻な緊張関係が現在も続いている。

韓国は大戦後米国および国連軍の支援のもと憲法を制定し、李承晩が初代
大統領となり軍事政権による独裁的な政治が長く続くことになった。
独裁政治による弾圧と民主化運動の闘争が繰り返されたが、1987年ようやく民主的な選挙によって大統領及び議員が選ばれるようになった。その後、
農業主体の一次産業から重化学工業、ハイテク産業に産業構造を転換し、高度成長を果たすことになる。

ソウルの都市景観
ソウルの都市景観

日本と韓国とは1965年日韓条約によって国交樹立がなされ、戦後経済補償も実行された。以来、経済や文化の交流が盛んに行われるようになり、産業、観光、芸能、映画、イベントなど人々の往来が活発になっている。
しかし、民族感情、歴史認識、戦後処理などの多くの難しい問題が障壁となり、現在も政治的な不信と反目が継続されている。
両国の若い世代の人々が障壁を乗り越えて、お互いに信頼し友好的な交流ができるような関係になることを期待したいものである。

北朝鮮はソ連の強力な支援をバックにして樹立された社会主義国家である。
以来、北朝鮮は金日成、金成日、金正恩三代にわたり一族が最高指導者として権力の座にあり強度な独裁体制を維持している。

北朝鮮の軍事パレード
北朝鮮の軍事パレード

人々には民主的な権利や自由はまったくなく、経済は停滞し生活は極度に貧窮する状態にある。国際社会から厳しい批判と制裁を受けながらも、軍事強国を目指し核開発やミサイルの開発を一方的に進めている。
日本と北朝鮮とは国交関係はなく断絶状態となっているため、残念ながら拉致問題や外交上の諸問題などの交渉と解決ができない状況にある。
この国に住む人々が長年の過酷な束縛から解放されて、民主的で自由な生活ができるようなることを願うばかりである。

台湾の植民地統治と友好的な関係

台湾との関係は比較的新しく、明治時代になってからのことである。

台湾の地図1
台湾の地図1

台湾の歴史は海に囲まれた島であることから中国代々の王朝の争乱に巻き込まれることなく、原住民である高砂族(マミ族、パイワン族)を主体にした平穏な土地であった。その後、この島に福建省出身の多くの漢人が移住し、朝鮮人や日本人も移り住むようになった。16世紀の大航海時代にはオランダ人が
進出して植民地化を進めた。
17世紀の一時期、明朝復権を目指した鄭成功一族が支配したが、清朝の興隆に伴い清国の属領とされた。
1895年に日本が日清戦争で勝利することによって清国から割譲された。
それ以降、台湾の植民地統治は1945年の日本の敗戦まで50年にわたり続くことになった。
日本統治の初めのころは台湾人の反対運動が起こったが、総督児玉源太郎の
的確な指揮のもとに台湾社会の安定と発展の基盤が整備された。

)児玉源太郎(右)と後藤新平(左
児玉源太郎(右)と後藤新平(左)

早い時期から統治方法を軍政から民政に切り替えたことによって、後藤新平、新渡戸稲造など優れた人物たちが台湾のために教育、法制、産業、公衆衛生などの整備強化に活躍し貢献することになった。
また鉄道、道路、港湾、ダム、水力発電所、上下水道などの建設を進め社会インフラを構築した。烏山頭水庫という台湾最大のダムがあるが、八田與一という技術者が中心となって建設したもので治水、灌漑、農業に多大な貢献をした。この地の関係者が感謝の気持を込めて八田の銅像を建立したとのこと。こうした社会的な制度や近代的なインフラは、現在に至るまで台湾に根付き役に立っていると言われている。

敗戦にともない日本は台湾の統治権を放棄することになった。
中国本土では毛沢東の共産党と蒋介石の国民党が内戦状態になっていたが、
1949年共産党が勝利し中華人民共和国が樹立された。敗れた蒋介石は中華民国の拠点を台湾に移し、軍民関係者すべてが移住した。
それ以来、台湾は従来から居住していた本省人と中国本土から移住した外省人が混在する社会となった。政治行政の上層部は外省人が独占し、不公正で不公平な独裁的な支配体制が続いた。

李登輝元総統
李登輝元総統

1988年、初めて本省人の李登輝が総統に就任し、民主主義に基づいた社会改革が行われ、経済発展の基盤が造られた。
李登輝は民主先生(ミスターデモクラシー)と呼ばれ、民衆の信頼と敬愛は今日に至るまで厚い。李登輝は若いころ京都大学で学び、日本の政治、経済、文化に精通した親日家であり、日本との関係は良好な状態が継続されている。
李登輝と長年にわたり親交のあった司馬遼太郎は著書「台湾紀行」の中で、李登輝の人物像を尊敬と親愛の情を持って詳しく綴っている。
台湾の世論調査によると8割の人が日本に対して親しみを感じている、そして5割の人が世界の中で好きな国として日本をトップにあげている。
近隣の国々とは、このようにお互いに親しみと信頼の持てる関係でありたいものである。

アジアを結ぶ福岡・博多の賑わい

国家間での政治的な緊張関係が続く状況にあっても、日本と中国、韓国、台湾とは民間人による経済、文化、観光などの交流が盛んに行われている。近年、福岡・博多は東アジアとの交流の拠点として一層重要性が高まっている。

アジアに開かれた港都福岡・博多
アジアに開かれた港都福岡・博多

博多港は日本海に面してアジアに向って開かれた港湾であるので、中国各地及び韓国、台湾、東南アジア諸国を結ぶ客船及び貨物船が多数就航している。博多港の輸出輸入量の取り扱いは、西日本では神戸港に次ぐ規模となっている。また、福岡国際空港にはアジア諸国の各地域を往来する多くの飛行便がフライトしている。

近年、中国・韓国・台湾・インド・タイ・フィリピン、インドネシアなどアジア諸国から来訪する人々が年々増加している。繁華街の天神や歓楽街の中洲にはアジアの国々の言葉が入り混じって聞こえる。

外国人観光客で賑わう大濠公園・博多湾
外国人観光客で賑わう大濠公園・博多湾

福岡城址や大濠公園を訪れる人、玄海灘で水揚げされるフグなど新鮮で美味な魚介類を求める人、那珂川沿いの屋台でとんこつラーメンを楽しむ人など、海外からの多くの観光客がエンジョイしている姿をよく見かける。
博多港、福岡国際空港、博多駅など公共施設、デパート、スーパー商業施設、観光地などでは日本語と共に英文字・中国文字・ハングル文字が併記表示されている。
これからも領土領海を巡る紛争、経済摩擦、新型コロナのようなパンデミックなどいろいろな問題が発生して交流が中断されることがあるかも知れない。
しかしそれぞれの国家の枠を越えて、東アジア・東南アジアの人々が安心して往来し交流することができる状態になることを期待したいものである。

悠久の海と神宿る島々

博多駅から小倉方面に向ってJRに乗り30分ほど海沿いに走ると宗像(むなかた)大社のある東郷駅に着く。宗像大社は古事記と日本書紀に記述があるように伊勢神宮、出雲大社と並ぶ古い歴史を持つ神社である。

神宿る島・沖ノ島(沖津宮)
神宿る島・沖ノ島(沖津宮)

辺津本宮、中津宮(大島)、沖津宮(沖ノ島)にそれぞれ女神が祀られ、古代より海上交通の無事を祈願する神社として信仰を集めてきた。造船技術も航海術も乏しい時代、荒ぶる玄海灘と日本海を渡り朝鮮半島や中国大陸に行くことは命懸けで困難きわまる航海であったと想像される。荒海を往来する海人たちは、宗像大社の三女神に航海の安全と平穏をひたすら祈ったのであろう。

沖ノ島出土の金剛製龍頭(国宝)
沖ノ島出土の金剛製龍頭(国宝)

特に、沖ノ島は北九州と朝鮮半島のほぼ中間の海上にあり、神宿る島として数百年の間、人の立ち入りが厳しく制限されてきた。結果として自然環境と古代の文物が当時のままに保全されている。
宗像大社・沖ノ島には国宝八万点があり、海の正倉院と云われている。
2017年の夏、ユネスコ世界文化遺産として宗像・沖ノ島関連遺産群が登録された。

玄界灘の神々しい夕景
玄界灘の神々しい夕景

以前、宗像大社を参拝し近くの海辺を散策したことがある。夕日がまさに玄海灘の海と空を染めて沈みかけている時であった。茜色に染まった海原には薄墨色をした島影が浮び、筆舌には表せないような美しく神々しい光景であった。
悠久の天体の動きと久遠の時の流れの中に身を置いているという感慨を覚えた。

博多というひとつの地域を軸にして、二千年来の日本と東アジアの人々の往来と文物の交流が日本の文明と文化の基になっていることを学ぶことができました。一方、日本海と東シナ海を挟む近隣の国々との紛争や戦争が繰り返されたことを再認識し、その経緯や真相を考える機会となりました。
そこには多くの貴重な歴史の教訓があるように思えます。改めて戦争は絶対あってはならないということ、そして平和の大切さと有難さを胸に刻む思いがしています。
日本海と東シナ海を挟んだ近隣諸国がお互いに信頼し平穏な関係を保ち、人々が安心して交流できるようになることを念願しています。
                                  [了]

掲載日:2020 年10 月23日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





 東アジア往来の道 博多見聞記中編

                           【野村邦男】 

元寇(文永・弘安の役)の戦場となった博多湾

博多湾は二度の蒙古襲来の主戦場であった。博多湾沿岸には石垣の防塁など元寇の遺跡が数多く残されている。博多湾に面した百道浜の西南学院大学のキャンパスを学生たちが楽しげに行き来しているが、かつてこの地は九州一帯の御家人を主体にした日本軍と元・高麗(こうらい)連合軍との激しく血みどろの戦闘が行われた場所である。

モンゴル・元帝国勢力版図
モンゴル・元帝国勢力版図

13世紀初め、チンギス・ハーンが興したモンゴル帝国は中央アジアを中心にユーラシア大陸の東西にまたがる世界最大の帝国となった。五代目のフビライ・ハーンは南宋を滅ぼし元帝国の初代皇帝となり、極東の島国日本に侵攻する計画を立てる。

フビライ・ハンの肖像
フビライ・ハンの肖像

フビライは時の朝廷と鎌倉幕府に6度も国書を携えた使節を送り元帝国に服従することを迫ったが、八代執権北条時宗はことごとく拒絶した。フビライはその野望を遂げるために海を越え大軍勢を日本に向かわせたのが元寇である。1274年(文永十一年)蒙古軍1.5万の兵、高麗軍0.8万の兵が襲来し博多湾に上陸した。九州一帯の御家人軍団が防戦にあたったが、元軍・高麗軍の猛攻によって博多の町は焼かれ多くの兵士と住民が殺された。

蒙古襲来戦闘絵巻
蒙古襲来戦闘絵巻

大宰府を護るため日本軍は水城まで後退し翌日の戦闘に備えるというきわどい戦況にあった。
10月20日日没の頃になると、元軍・高麗軍は一斉に戦闘を休止して軍船に引き揚げてしまう。翌朝博多湾をうめていた元軍の九百艘の軍船全てが忽然として姿を消していた。
軍事作戦の変更、軍内部の抗争、天候急変など撤退の原因は不明のままである。

防塁に終結する武士団
防塁に終結する武士団

鎌倉幕府は元軍が再度襲来することを予測して、博多湾一帯の防衛体制を強化する。元軍が上陸して地上戦になることを防ぐ為に、高さが2m、幅が3mの石築地の防塁を博多湾沿岸に20kmにわたり構築する。
1281年(弘安四年)元軍は前回よりも遙かに大規模な軍勢で襲来した。東路軍4万の兵、江南軍10万の兵、軍船4400艘という桁違いのスケールである。
平戸沖に集結し博多湾に向って進撃し総攻撃をかけようとしたのが7月30日。その夜は二百十日の前日、まさに大型台風の暴風雨が吹き荒れて元軍の軍船の大部分が沈没し、10万を超える将兵が溺死したと云われている。元軍による九州上陸と侵攻を防ぐことは出来たことは、後世神風といわれるような天佑であった。

北条時宗の肖像2
北条時宗の肖像

この二度の蒙古襲来の戦いの総責任者であった北条時宗は20代後半の若い執権であった。世界最大のモンゴル・元帝国の皇帝であるフビライの6度にわたる服従の要求を拒絶し、二度の元寇を戦い抜いた若き指導者の勇気と胆力に感嘆する。
また底知れない巨大な海外兵力と戦うことに対する不安と恐怖の念は如何ばかりであったか計り知れないものがある。
蒙古軍による国土の蹂躙と占領支配という事態を思うだけでも、精神的な重圧は大きく神経をすり減らしていたことが想像される。

円覚寺舎利殿
円覚寺舎利殿

時宗は元寇の戦没者を弔うために北鎌倉に円覚寺を創建する。戦死した日本軍と元軍の戦士を分け隔てなく供養するという時宗の思いの込められた禅寺である。
この戦役の3年後、時宗は病に伏して32歳の若さで逝去することになった。武家の本領を発揮し燃焼尽くした生涯であったことが偲ばれる。

一方、中央アジアの草原の遊牧民族が13世紀から14世紀にかけて世界最大のモンル・元帝国をつくり上げたことに驚きを禁じえない。モンゴル高原から始まった支配領域は東ヨーロッパからトルコ、イラン、アフガニスタン、中央アジア、中国、朝鮮半島に至るまで拡大した。 
遊牧民族から興り短期間のうちに世界最大の帝国を形成し、再び草原の小さな民族国家に後退した歴史は、古今東西を見渡しても他に類を見ない稀有な興亡の歴史でもある。
ちなみに現在、モンゴル国は人口200万余りの平穏な小国となっている。

大陸との交易拠点として賑わった博多

博多港の埠頭に立って博多湾の状景を眺めると、この入江が如何に優良な港湾であるかということがよく分かる。年間通して玄海灘の荒波を防ぐ穏やかな入江は古来より中国、朝鮮半島との交易に最も適した湊であった。

平清盛の肖像
平清盛の肖像

平安後期になると、時の権力者平清盛は自ら太宰大弐となって九州全体を掌握すると共に、博多に新たに袖の湊を造り日宋貿易の拠点にした。
清盛は兵庫にも大輪田泊を修築し外国との貿易に力を入れており、経済の面でも才覚のある為政者であった。宋から輸入する陶磁器、宋銭、香料、薬種などは大きな利益をもたらし平家の財政基盤に貢献した。博多湾には宋からの船が度々入港し、宋の商人が珍しい物品を陸揚げし京大阪方面まで輸送して商いをしていた。宋の商人が多数住んでいた大唐街という地域が現在もあり、商都として賑わっていた面影が残っている。

足利義満の肖像
足利義満の肖像

室町時代になると三代将軍足利義満が明との交易に力を入れる。1368年中国では元が滅亡し明朝が樹立され、環シナ海地域と云われる中国、朝鮮、日本、琉球、台湾に囲まれた海域で商取引が盛んとなっていた。
義満は貿易による利益に着目し、明に使者を出し幕府と明朝との貿易を公式なものとしたのが遣明船による勘合貿易である。

遣明船絵図
遣明船絵図

明との交流は経済的な利得だけではなく、中国の新しい文化がもたらされ室町時代の北山文化と東山文化に大きな影響を与えることになる。
水墨画、書、漢詩文、茶の湯、立花、陶磁器などさまざまな文化が取入れられ、日本風に変容して日本人の生活様式に根づいて行くことになった。

秀吉の朝鮮出兵と名護屋城

博多からJRで海沿いに唐津まで行き、そこからバスで東松浦半島の先端まで行く。小高い丘に徒歩で登って行くと名護屋城跡に辿り着く。
この名護屋城は秀吉が築いた大阪城に次ぐ巨大な城であったが、いまは幻のように跡形もなく崩落した石垣と茫々とした草原が広がるばかりである。
城跡に立って北の方を眺めると玄海灘の青い海原が広がり、対馬海峡の先には朝鮮半島があることが想像できる。

本能寺の変により織田信長が倒れた後、羽柴秀吉は明智光秀を打ち、薩摩の島津と小田原の北条を打倒して天下統一を成し遂げた。

豊臣秀吉の肖像
豊臣秀吉の肖像

関白・太閤に登り詰め天下人となった秀吉は大陸征服の野望を持つようになる。秀吉の構想は朝鮮と明を征服して支配下に置き、後陽成天皇を北京に移し豊臣秀次を明の関白職にあて、朝鮮には羽柴秀勝他武将を配置し、秀吉自身も上海に近い寧波に居所を置くというものであった。このような途方もない構想のあったことが事実として古文書に記るされている。

1592年(文禄元年)秀吉は全国の諸大名に朝鮮出兵の号令をかけ名護屋城に集結させ16万もの大軍が朝鮮半島に送り込まれることになった。
肥前松浦の鄙びた海辺の寒村が突如出兵の前線基地となり、短期間のうちに巨大な名護屋城が築城された。

名護屋城屏風図
名護屋城屏風図

この地に秀吉自らも出陣し本営を構え、五重の天守が建てられた。
城の周辺には120ヶ所の陣屋が置かれ、10万もの兵士と兵站部隊が常駐していた。
小西行長、加藤清正、黒田長政、福島正則などが先陣を務め、徳川家康、前田利家、伊達政宗、上杉景勝などが後詰めとして名護屋城に陣を張っていた。

文禄・慶長の役朝鮮半島侵攻図
文禄・慶長の役朝鮮半島侵攻図

釜山に上陸した軍勢は三方面に分かれ漢城(現ソウル)と平城(ピョンヤン)を攻略し、朝鮮半島のほぼ全域を制圧した。しかし、明軍の参戦、義勇兵の抗戦などにより戦闘が膠着し、攻守逆転する状況になる。また李舜臣率いる水軍との海戦が数回行われ日本軍が敗退している。その後停戦講和の話し合いが何度も持たれ使者が行き来している。
しかし再度、1597年(慶長二年)秀吉は朝鮮半島への出陣を号令し14万余の兵を送り込む。釜山の近くの蔚山倭城の籠城戦など過酷な戦いが続き、異国での厳しい環境、兵糧の枯渇などによって現地の諸将の厭戦気分が出てきて秀吉軍内部での紛争が続発した。
1598年(慶長三年)秀吉の死去によって朝鮮戦役は終結し撤兵することになる。秀吉の野望で引き起こされた文禄・慶長の戦役は失敗に終り、朝鮮の人々に甚大な犠牲と被害をもたらしたまったく無駄な戦争であったと言える。

名護屋城天守台跡
名護屋城天守台跡

豊臣政権が滅び徳川幕府の時代になると名護屋城は跡形もなく取り壊されまさに夢まぼろしの城址となってしまった。

常軌を逸脱した誇大妄想的な野望に対して、有力な武将達がどうして抵抗し阻止できなかったのか疑問の残るところである。秀吉の権力がきわめて強大なために、家康ほか有力武将達が異議を申し立てる術がなかったのであろうか。
天下を取るまでの秀吉は知略に富み、人心掌握と果敢な行動力にたけていたが、晩年の秀吉は不条理で頑迷な独裁的権力者になっていたと考えられる。
この戦役は朝鮮半島全域を戦場とし、兵士ばかりでなく膨大な数の民衆を犠牲にした。
400年余りが経過した現在でも朝鮮半島の人々の日本に対する怨念の情が根底に流れる要因となっている。

一方、朝鮮出兵によってもたらされたものとして陶磁器の技術がある。
九州各地の武将は朝鮮半島から撤収する際に多くの陶工を連れ戻った。こうした優れた陶工たちの手によって有田焼、伊万里焼、唐津焼、薩摩焼などが造り出された。
有田焼は陶工李参平によって日本で造られた最初の磁器である。
その後柿右衛門窯、今右衛門窯、源右衛門窯など特長のある磁器が創出され、ヨーロッパにも輸出された。現在も世界的に高く評価されている。

十四代沈壽官
十四代沈壽官

薩摩焼の代表的な窯元として沈壽官(ちんじゅかん)窯がある。十四代目の沈壽官氏の講演を聴く機会があり、鹿児島串木野の窯元を訪れ400年にわたる代々の優れた陶磁器を鑑賞することができた。沈壽官氏は優れた陶磁器制作の技量だけではなく、早稲田大学にも学び高い見識と品格を備えた人物であるという印象を受けた。

沈壽官窯の鳳凰香炉
沈壽官窯の鳳凰香炉

司馬遼太郎が著作「故郷忘じがたく候」において朝鮮陶工の歴史と十四代沈壽官氏の高潔な人物像を詳しく語っている。そして、代々の薩摩藩主は沈壽官家に苗字帯刀を認め士分として厚く遇した。

徳川幕府と朝鮮通信使

秀吉の文禄・慶長の役によって朝鮮半島を侵略した弊害は大きく、日本に対する遺恨の強い李氏朝鮮王朝とは国交の断絶状態が続いていた。豊臣政権を倒し徳川幕府を樹立した徳川家康は国交の修復が必要と考え、李氏朝鮮と国書の交換を重ね関係改善を図っていた。
その後、李氏王朝が日本に外交使節団である朝鮮通信使を派遣することを認め、

朝鮮通信使絵図(  大英博物館蔵)
朝鮮通信使絵図(大英博物館蔵)

1607年(慶長12年)初めて朝鮮通信使が来朝し徳川将軍秀忠に謁見することになった。以降、徳川幕府が終幕するまで260年間12回の通信使団が来訪した。
鎖国を国是とした日本には中国(明朝、清朝)とオランダとの交易、そして正式な外交関係として李氏朝鮮王朝だけが認められていた。
朝鮮通信使は両国の関係修復という目的と共に徳川幕府の権威発揚の狙いがあった。そのため、通信使団の陣容は朝鮮側が500人前後、日本側が付添と警護に1500人という規模であった。朝鮮半島を出立し日本海を渡り九州北部、瀬戸内海、大阪、京都、東海道を経由して江戸にいたるまでの大よそ10か月の旅程であった。宿泊地では各地の大名藩主が饗応・接待の役割を持ち、来訪一度あたり総計100万両という莫大な費用が掛かったと言われている。通信使団には外交官ばかりでなく、大勢の学者・文人・画家・楽隊・料理人が随行していた。

朝鮮通信使江戸市中行列図
朝鮮通信使江戸市中行列図

当時の日本人にとって外国人を見ることがなかったため、通信使団の行列には異国の風物を一目見ようと沢山の人々が沿道に押し寄せた。各地の宿泊先では多くの文人墨客が訪れ熱心に見聞や意見の交換をしたとのことである。
博多には「博多どんたく」という大きな行事があり、夏の初め200万人もの人が参加する。市内各所でステージが設けられ歌に踊り、音楽などが催される。その中には、朝鮮通信使の仮装行列も繰り出され大通りを賑やかに練り歩く。
古代より東アジアの国々との交流の表玄関となってきた博多は、異国の文化と風物をいち早く取入れるという国際的な風土が現在にいたるまで根づいている。

黒田武士と博多町衆

博多の町を歩いていると福岡と博多という名称が混在している。福岡市のJR中央駅が福岡駅ではなく博多駅になっているところにも歴史が投影されている。
行政の面では福岡、歴史風土の面からは博多と呼ばれているように思われる。

黒田官兵衛の肖像
黒田官兵衛の肖像

関が原の合戦の後、黒田官兵衛、長政父子が筑前の大名となり、現在の地に城を築きその名称を黒田家の郷里備前福岡にちなんで福岡城としたことから福岡という名称が使われるようになった。
一方、二千年来の歴史に培われた土地柄から、博多湾、博多港、博多駅、博多祇園山笠、博多どんたく祭、博多人形、博多明太子など郷土に由来する名が付けられている。

黒田官兵衛(後の如水)は戦国の動乱の中、信長の臣下となり、その後秀吉にとってはなくてはならない名参謀として活躍し豊臣政権の成立に貢献した。官兵衛の嫡子長政は秀吉の朝鮮出兵では攻撃の一翼を担う武将として活躍し、関が原の合戦では徳川家康の東軍に参陣し、小早川秀秋などの寝返りを促し東軍勝利に大きく貢献した。

福岡城大手門
福岡城大手門

軍功により官兵衛・長政父子は五十二万石の大名となり筑前に入国、7年をかけて福岡城と城下町を造り福岡藩の基盤を整えた。
黒田家の家臣には後藤又兵衛、母里太兵衛など勇猛な武将達がいて、世に言う黒田武士である。黒田節「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」と唄われている。
事実の話として太兵衛は宴席で大杯を呑み干して福島正則から天下の名槍「日本号」を譲り受けた。現在、福岡博物館に展示されている名槍はいかにも重厚にして鋭く見える。

博多町衆は古代より東アジアとの交易に関わり、商業を生業としてきた人々である。権力者の支配に縛られるのではなく、町衆の合議制による先進的自冶的な町の運営を行っていた。町衆は昔から異国の人々との接触が多く国際的であったことから開放的である。
日本の各地からやってくる人々に対しても、外国人に対してもオープンマインドであり,親しみの持てる気質である。

博多祇園山笠
博多祇園山笠

博多祇園山笠は櫛田神社を祭礼とする博多最大の祭である。7月1日から15日まで行われるが、博多っ子は何をさておいてもこの祭に熱中する。
祭の最終日は追い山と呼ばれ、大きく豪壮な飾りの舁き山を各町内(流れ)の若者から年配者までが担いで市内を駆け巡る。町筋ごとに競う勇壮な山笠には町衆の心意気が溢れている。こうした町衆の精神は長い年月を経て親から子へと引き継がれ、今日の博多の人々の生活や社会に根を張っている。

福岡・博多の景観
福岡・博多の景観
                              
博多を中心にした九州北部は、稲作の伝播、仏教の伝来、学問や技術の導入など東アジアからの新しい文明と文化を受け入れる表玄関でもあった。また東アジア諸国の政治情勢の荒波が直接押し寄せる地域であり、白村江の戦い、蒙古襲来、秀吉の朝鮮出兵という海外との戦争に巻き込まれ前線基地になった日本史上稀な地域である。古代から二千年にわたる東アジアの人々との往来の拠点となってきた福岡・博多が難しい国家間の諸問題を乗り越えて、多様な民族と文化が交流する平和な国際都市となっていくことを期待したい。
                               つづく

掲載日:2020 年9月24日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)






 東アジア往来の道 博多見聞記前編

野村邦男

日本の歴史は奈良、京都、鎌倉、江戸、東京という都を中心にして繰り広げられてきた。しかし東アジアとの交流・交易に関しては、九州北部・博多の果たしてきた役割は大きい。

東アジアの地勢図 (1)
東アジアの地勢図

博多は中国及び朝鮮半島とは日本海を挟み一衣帯水の距離にあることから、奈良や京都よりも古くから二千年以上にわたる往来の歴史がある。
博多湾は西に糸島半島、東に志賀島・海の中道が囲み、激しい波浪を防ぐ良好な入江となっていて、古代より日本列島と東アジアを行き来する人々と文物の最も大きな出入り口であった。
博多及び九州北部を軸にして日本と東アジアとの有史以来の歴史を辿ると、時空を超えて民族の往来、文明と文化の交流、国々の興亡そして戦争と平和などについて考えさせられることが多い。

東アジア往来の地・博多 (1)
東アジア往来の地・博多

博多には旅人として幾度も訪れ、また会社の仕事の関係で赴任生活した土地でもある。
興味の趣くままに各地を訪れ歴史と風土を尋ね、その地の人々と触れ合う中で見聞し思ったことを綴ることにしました。

志賀島で発見された漢委奴国王の金印
博多湾を囲むようにして海の中道が細長く伸びる先端に志賀島がある。
志賀島は6k㎡ほどの風光明媚な小さな島であるが、古代の歴史を探る上で重要な島として注目されている。この島で江戸時代中期に歴史上画期的な金印が農作業中の農民によって偶然に地中より発見された。

漢委奴国王の金印
漢委奴国王の金印 国宝

この歴史上貴重な金印は国宝に指定され、現在福岡市博物館に展示されている。印面2.4cm四方,高さ2.3cmで、鈕(つまみ)には蛇を模した彫像がつけられた純金製で、小さいながら不思議な光彩を放ち二千年の歴史を物語っているように見える。
漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と彫られた金印は、紀元57年に

後漢・光武帝肖像 (1)
後漢・光武帝肖像

後漢の光武帝から九州北部の豪族である奴の国王に与えられたものである。
当時日本は倭国(わこく)と呼ばれていて、統一された国がなく100余のクニが群雄割拠し、博多周辺を支配していたのが奴(な)のクニであった。
当時の倭国には文字がなかったので、中国の史書「後漢書東夷伝」でこの金印授受の経緯が綴られていることから、日本で初めて文字で記された歴史の証とされている。
金印と後漢書によって、紀元前後には九州北部に群拠していた海洋部族の奴国、伊都国、末蘆国などが中国(漢帝国)と外交関係を結び、大陸との間を人々が往来していたことを知ることが出来る。

吉野ヶ里遺跡と女王卑弥呼・邪馬台国の謎 
博多から背振山を越えると筑紫平野に至る。この佐賀神崎の地に、近年のことであるが
1986年吉野ヶ里遺跡が発掘された。

吉野ケ里遺跡 (1)
吉野ケ里遺跡

弥生時代の環濠集落の貴重な遺跡であることが判明し、広大な土地に住居、高床式倉庫、物見櫓、城柵などが当時のままに再現されている。
吉野ヶ里遺跡の一角に立ち眺めていると、古代の部族の支配者と稲作に励む人々の生活の営みを想像することができる。周りには稲田が広がり、空には渡り鳥が飛んでいるような状景が目に浮かぶ。「魏氏倭人伝」に記述されていることによると、3世紀初頭倭国は小国が割拠分立する中、邪馬台国の卑弥呼が女王として擁立され30国を統率したとある。
中国は魏、蜀、呉が覇権を競う三国時代であり、239年卑弥呼が魏に朝貢の使者を派遣した。皇帝明帝が女王卑弥呼に親魏倭王の称号を授与したと記されている。

魏志倭人伝・邪馬台国への経路 (3)
魏志倭人伝・邪馬台国への経路

倭人伝には中国から邪馬台国に行く海路と陸路の道筋が記され、宮室、楼観、城柵の状態、クニの政治や社会の状況が詳しく綴られている。

しかしながら当時の倭国には文字や文書がないため歴史的な実態は判らない。邪馬台国の場所については北部九州説と大和・畿内説があり、考古学者、郷土史家、作家などの間で様々な見解と論争が繰り広げられている。
実際に現地を訪ね山紫水明な筑紫平野と吉野ヶ里遺跡を眺めていると、卑弥呼と邪馬台国の謎について想像の翼が広がり興味が尽きることがない。

渡来人がもたらした革新的な技術と文化
古代に中国や朝鮮半島から日本に移住した人々及びその子孫を渡来人と呼んでいる。渡来人がもたらしたものとして画期的な技術として稲作がある。

稲作伝播のルート (1)
稲作伝播のルート

福岡空港の近くにある板付遺跡で水田跡が発掘され、稲作の開始状況が判明された。
伝播された稲作は縄文から弥生へと時代を転換し、古代日本の農業、食料、生活など社会全般にわたり根底から転換することになった。
そして稲作は九州北部から中国地方、近畿、中部、関東、東北と日本列島全体に広がって行った。
また、鉄器は農機具、武器、生活用具など幅広く使われるようになり、特に農業の飛躍的な生産性向上に役立つものであった。
その後、中国で生み出された先進文化である文字、医術、暦法、紙、墨などが中国及び朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、日本人の生活の中に取り入れられた。
日本が未開社会から文明社会に転換する契機になった。
また、鉄器は農機具、武器、生活用具など幅広く使われるようになり、特に農業の飛躍的な生産性向上に役立つものであった。その後、中国で生み出された先進文化である文字、医術、暦法、紙、墨などが中国及び朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、日本人の生活の中に取り入れられた。日本が未開社会から文明社会に転換する契機になった。

3世紀はじめ奈良盆地に強力な豪族が誕生し、河内、山城と勢力を拡大し大和政権が次第につくられていく。畿内を支配した大和政権は瀬戸内海沿岸の諸勢力を従属させて、九州北部に進出し小国群を支配下に治め西日本における統治体制をつくりあげた。
朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三大勢力と南部の伽耶(かや)など小国が乱立して争う動乱の状態にあり攻防を繰り返していた。大和政権はこの頃から朝鮮半島南部に進出し、伽耶の諸地域を支配し鉄器などの交易を本格的に行っていた。

高松塚古墳壁画(国宝)
高松塚古墳壁画 国宝

新羅(しらぎ)から集団として渡来した秦氏(はたし)一族は京都太秦(うずまさ)を本拠にし、百済(くだら)から渡来した東漢氏(やまとのあやうじ)一族は奈良飛鳥を拠点に活動した。
製鉄、武器、農具、土木、織物、養蚕などの主要な生産技術が伝えられた。

勢力を拡大しつつあった大和政権はこうした渡来人を行政機構の重要な役職にも登用して政治力、軍事力、生産力の強化に活用している。
高句麗から渡来した集団は武蔵国・高麗(こま)地域に定住し、その地を開拓し生活の基盤を作った。高句麗人によって建立された高麗神社を訪れてみると長い同化の歴史を知ることができる。秋になると高麗の里は曼殊沙華の赤い花で一面覆われる。

仏教伝来の経路 (1)
仏教伝来の経路

稲作の伝播と同じように、古代から現代に至るまで日本人の社会と生活に多大な影響をもたらしたものが仏教の伝来である。
紀元前5世紀に釈迦が開いた仏教は、インドから中国、朝鮮を経由して6世紀半ば飛鳥時代の日本に伝来した。稲作の伝播と同じように、古代から現代に至るまで日本人の社会と生活に多大な影響をもたらしたものが仏教の伝来である。
紀元前5世紀に釈迦が開いた仏教は、インドから中国、朝鮮を経由して6世紀半ば飛鳥時代の日本に伝来した。

聖徳太子肖像(四天王寺蔵) (1)
聖徳太子肖像(四天王寺蔵)

大和朝廷の中でも特に聖徳太子は仏教に深く帰依し、鎮護国家の思想として厚く保護し広めた。

飛鳥寺、法隆寺、四天王寺などが建立され、全国各地域にも国分寺が建てられた。当時の日本人の精神的な主柱としての宗教として根付くことになり、その後多様な宗派が生み出され今日に至るまで多神教の日本人社会の中で仏教が主流をなしている。

大化の改新と白村江の戦い
大和朝廷では645年中大兄皇子と中臣鎌足による乙巳の変・大化の改新が断行された。

大化の改新(乙巳の変) (1)
大化の改新(乙巳の変)

それまでの国内の争乱を治め、公地公民制、行政区画の設置、戸籍・班田収受法など新しい政治の統治体制を構築しつつあった。
一方、中国では隋が滅び618年唐王朝に変わり、巨大な国家が出現していた。
朝鮮半島では660年、親密な関係にあった百済が唐・新羅連合軍によって攻め滅ばされてしまった。
大和政権は百済王族の強い要請があり百済再興のために、2度にわたり延べ4万を超える兵力を鮮半島に出兵した。白村江の戦いは古代倭国の初めての大規模な海外戦争であり、博多は朝鮮半島への出兵の前線基地となった。

白村江の戦い4 (1)
白村江の戦い

女帝斉明天皇と嫡嗣中大兄皇子(後の天智天皇)は自ら筑紫国博多まで出陣した。663年10月錦江河口付近の白村江において、倭国・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦いが行われたが、水軍の力に勝る唐・新羅連合軍に瞬く間に大敗してしまう。多大な犠牲を払った上、無残な状況で撤退することになった。
古代の推定人口が500万人ほどの小さな倭国が、当時の世界最大の大唐帝国と新羅連合軍に対して日本海を越える無謀な勝ち目のない戦争を何故に起こしたのか不可解なことである。
大和朝廷は百済とは特に親交の深い関係にあり、豊璋太子など百済系の高官が政権の中枢にいたため百済を再興し救援をする動機になったのではないか。
また大和朝廷の政治体制が脆弱な状態であったため海外事情に疎く、戦争の戦略・戦術が未熟であり、大所高所の政策決定ができなかったことなどが推測される。
日本はその後も、秀吉の朝鮮出兵、日清・日露戦争、日中戦争、太平洋戦争など無謀な海外戦争を繰り返すことになる。

天智天皇肖像 (1)
天智天皇肖像

敗戦後大和政権は唐から攻め込まれるという危機感が強くあり、新しい国家の体制を早急に構築する必要に迫られた。
この戦争を契機として天智天皇と天武天皇の二代にわたり、律令制による国内統治の整備を急速に進めた。これまでの倭という国名から日本という国号に定められ、代々の大和政権の統括者は大王(おおきみ)という名称から天皇という称号に定められた。これらの大きな変革によって天皇を頂点とする統治体制がつくられ、日本史上の大きな転換点となった。

能古島と防人の哀歌
博多湾の中に浮いているように見える能古島には、百地浜から連絡船に乗り15分ほどで行くことができる。船着場からバスで島の頂まで行くと玄海灘に向って視界が開ける。
春には菜の花、秋にはコスモスが野原一面に咲き乱れ青い海とのコントラストが実に美しい。

博多湾の能古島3
博多湾の能古島

しかし、この穏やかで美しい島はかつて防人の哀しく過酷な防衛の最前線であった。白村江の戦いで敗退した倭国は朝鮮半島や中国からの攻撃に備えるために九州北部に防人(さきもり)を配備した。能古島には敵が襲来した場合の知らせを大宰府まで届けるために狼煙台が設けられ、今でもその跡が残されている。

防人の像2
防人の像

防人の大部分は関東地域の武蔵、相模、上野、下総などから徴用された農民出身の兵士で強制的に筑紫、壱岐、対馬などに送りこまれた。
遙か彼方の九州まで行くのは生きて帰る見込みのない長途の旅であり、3年の駐在が命じられていた。食料も衣料も乏しく任務終了後の帰路は自弁を強いられて、多くの兵士が野垂れ死にするという過酷で悲惨なものであった。
当時は皇族、貴族ばかりでなく兵士や農民も和歌を嗜んでいて、防人たちは多くの歌している。大伴家持が編纂したといわれる万葉集には東国の東歌・防人歌が多数収録されている。
妻子・両親など家族との別れを悲しみ心配する心情が詠われている。
   唐衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして 

多摩丘陵横山の道に見返り峠がある。防人がはるばる遠隔の九州の筑紫国に旅立って行く時に、この見返り峠で見送る家族と別れを惜しんだ場所である。
そこに万葉集に収録された歌碑がある。
  赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らん

太宰府政庁と太宰府天満宮

太宰府政庁跡
太宰府政庁跡

博多から20kmほど南に行くと大宰府政庁跡(都府楼跡)がある。
大宰府政庁は7世紀初期から大和政権の出先機関として九州一帯を統治する重要な行政機関であった。
特に、中国及び朝鮮半島の王朝との外交、軍事、交易などの役割を担い、海を渡って来た使節との応対や接待がここで行われていた。
25万㎡の広大な敷地に政務を司る多くの建物が建造されていて、今は無き当時の豪壮な政庁の姿が想像される。藤原純友の乱などにより建造物は焼失して、現在は都府楼の正殿跡の三体の石碑と広い野原に点在する礎石が見える
ばかりであり、この場所に立つと歴史の変遷と茫々とした風雪が感じられる。都府楼跡に隣接して観世音寺がある。
女帝斎明天皇は中大兄皇子と共に白村江の戦いのために筑前まで遠征したが、68歳という高齢の天皇はこの地で逝去してしまう。

観世音寺の梵鐘(国宝)
観世音寺の梵鐘 国宝

後に中大兄皇子は天智天皇となり、母親の菩提を弔うために発願し建立したのが観世音寺である。天満宮とは違い訪れる人が少なく、この古刹は質朴で深閑としている。
境内の鐘楼にある梵鐘は現存する最古の銅鐘であり国宝となっていて、千三百年もの間、大宰府一帯に悠久の音色を響かせている。

太宰府天満宮
太宰府天満宮

大宰府天満宮は菅原道真を祭神として祀る神社であり、全国の天満宮の総本宮とされている。平安前期、学者としても政治家としても優れた才能を持ち朝廷の信任が厚く右大臣の要職を担っていた。藤原時平らの中傷によって大宰府政庁の権師として左遷され、この地で失意のうちに死去するに至る。
醍醐天皇在位の京の都に道真の怨霊の祟りと云われる凶事が重なり、天皇の命により太宰府の地に道真を祀る天満宮が建立されることになった。

菅原道真肖像
菅原道真肖像

道真は漢詩文、和歌、書など学問に対する造詣が深いことから、今日にいたるまで学問の神様として広く信仰を集めている。
道真は梅の花をこよなく愛し和歌を詠んでいる。
東風ふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
飛梅の故事がある本殿前の梅の神木は、春になると香しい美しい花を咲かせる。
  

遣隋使・遣唐使が持ち帰った先進的な文化
博多湾の埠頭に立って穏やかな入江とその先の玄海灘を眺めていると、かつてこの那の津(博多の古名)から遣隋使・遣唐使が命懸けで荒海に船出した様子が浮かんでくる。難波の住吉津から出発し、瀬戸内海を通り、那の津に入る。
そこで準備を整え玄海灘から日本海に出て、壱岐、対馬を経由、朝鮮半島西海岸沿いに遼東半島、山東半島に至るルートが北路。那の津から五島列島に向かい、東シナ海を横断して蘇州や明州に至るのが南路であった。
遣隋使は聖徳太子の意向で600年に始まり、18年間に6回派遣されている。
小野妹子等が持ち帰った隋の政治制度や文化は、後の大化の改新、律令国家の基になったと云われている。
その後、中国の王朝は隋から唐に変り、当時の唐は世界最大の王朝であり広大な領域を支配する帝国となり周辺諸国に大きな影響力を持っていた。
また首都長安はシルクロードを通して東西の多様な民族と文物と文化が交流する先進的な国際都市であり多くの異国人が生活をしていた。唐から政治、法制度、仏教、技術などを修得する為に遣唐使は630年から894年まで16回実施されている。
遣唐使船は4隻編成の帆船で、1隻あたり100名余が乗船していた。
遣唐留学生の中には阿倍仲麻呂もいて、優秀な官吏として玄宗皇帝に特別に寵遇されため日本に帰りたいという想いがかなわず、長安で生涯を送ることになった。望郷の和歌が遺されている。
  天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

遣唐留学生として那の津から船出した二人の僧がいた。空海と最澄である。

空海像
空海像

高野山壇上伽藍
高野山壇上伽藍

空海は青竜寺の恵果から密教を学び灌頂を受け、多くの経典、仏像、仏画などを持ち帰った。大宰府の観世音寺に暫らく滞在し、後に弘法大師として高野山を開山し金剛峯寺を創建、京の東寺、神護寺などを通じて真言宗を全国に広めた。

最澄肖像(国宝)
最澄肖像 国宝

比叡山延暦寺
比叡山延暦寺

最澄は天台山で密教の教義、戒律を学び多くの仏典を携えて帰国した。その後、伝教大師として比叡山に天台宗の根本道場延暦寺を建立し、法然、親鸞、道元などはこの比叡山において学業修行をしている。
遣唐使は唐朝の滅亡などもあり894年に停止されるが、その後建国された宋との往来が続く。鎌倉時代には栄西や道元が宋に渡り禅を修得し持ち帰る。
栄西は天台山万年寺で臨済禅を学び、帰国後、博多に聖福寺、鎌倉に寿福寺、京に建仁寺を建立し臨済宗を広めた。茶の木を持ち帰り日本人に喫茶の習慣を植え付け、後に茶の湯の道を開く基になった。
道元は宋の天童山の如浄に禅の教義を学び、帰国後越前に永平寺を開山した。只管打坐による厳しい修行を基にする曹洞宗を興し、正法眼蔵など多くの仏法書を遺した。

博多という土地を軸にして東アジア往来の道をたどると、古代の日本人は幾多の困難を乗り越えて中国、朝鮮半島の人々との交流を盛を行っていたことがよく分かります。また、先進的な地域の文明と文化を積極的に取入れ、学問や技術などを学ぶという進取の精神に富んでいたことに感銘します。
千数百年前の日本の先達の開明的な精神と果敢な行動によって新しい時代を切開いたということと、明治維新以降欧米の文明と文化を導入して社会改革を断行し近代国家に転換したことと相通じるものがあるように思えます。
                                つづく

掲載日:2020 年8月24日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)






夢幻の山道 吉野紀行

                              [野村邦男]

吉野は京都のような表舞台とは違った特異な歴史が刻まれた地域です。
千数百年にわたり役小角(えんのおづの)を始め多くの山岳修験者が荒行を続ける修行の場であり、源義経、後醍醐天皇、豊臣秀吉などの歴史的なドラマが繰り広げられたところです。文芸の分野では西行法師、松尾芭蕉などが名歌、秀句を遺した場所でもあります。
かねてより、夢まぼろしのような吉野に興味が惹かれていました。その歴史と風土と文化に触れてみたいという思いから吉野山を訪ねることにしました。

吉野山は花見の時節には多くの人で賑わうが、晩秋の吉野は閑散としていた。
早朝、近鉄吉野線の終点である吉野駅のプラットフォームに降り立ったのは私ともう一人だけであった。肩からカメラを提げた初老の写真愛好家で、吉野山の四季折々の景色や風物を撮影するために何度も訪れているとのことであった。
駅の近くにはケーブルカーがあるが、まだ動いていない。

吉野山の景観 
吉野山の景観   

朝日が注ぐ草むらの露がきらきら光る細い山道をゆっくりと登って行くと段々と視界が開けてくる。七曲と呼ばれる坂道を上りつめると尾根道にたどり着く。宿坊や店屋が軒を連ねる古道をしばらく歩いて行くと金峯山寺の総門である瓦屋根の黒い門が見えてくる。
この黒門を過ぎると今度は銅で造られた鳥居が現れる。
寺の黒門と神社の銅鳥居が同じ参道に建っているのは古代からの神仏混淆に由来するものである。

空海の筆と云われる「発心門」の扁額が掲げられている黒門をくぐり、修験者は心を新たにして厳しい修行を行うため吉野から大峯、熊野へかけての深い山々に入っていくことになる。

金峯山寺仁王門
 金峯山寺仁王門      

更に歩を進めると大きな石段の上に本瓦葺きの仁王門(国宝)が聳え立っている。
右に阿形、左に吽形の大きな金剛力士像が迫力のある形相で迎え、いよいよ金峯山寺の境内に入ったという気持ちになる。

金峯山寺(きんぷせんじ、国宝)は白鳳年間(七世紀後半)に役小角が修験道の根本道場として開山し行基が創建したもので、現在は金峯山修験本宗の総本山となっている。
昔も今も多くの僧侶や修験者は吉野山蔵王堂から大峯山の山上蔵王堂にかけての山岳で厳しい修行を行っている。金峯山千日回峯行は最も厳しい修行と云われている。
金峯山寺の本堂である蔵王堂は東大寺の大仏殿に次ぐ巨大な建築物で国宝に指定されている。蔵王堂は兵火、落雷、失火などにより何度も焼失しているが、現在の蔵王堂は天正二十年(1592年)に再建されたもの。

金峯山寺蔵王堂
金峯山寺蔵王堂

蔵王堂の柱は全部で六十八本あり杉、檜、欅、松、柿などそれぞれ違う木材を使用していて、柱周りは二メートル余り、高さは十メートルを越えている。これらの柱に手をふれながら、深い山の中で機械の無い時代にどのようにして巨木を伐り出し、運び、建ち上げたのかと考えさせられる。
法隆寺や東大寺は平地に建てられているが、この蔵王堂は険しい山中に全て人力によって建造されたということにただただ驚くばかりである。

本尊の金剛蔵王権現は秘仏であるため普段は厚い扉に閉ざされていて見ることができないが、参詣に訪れた時は国宝仁王門大修理勧進による滅多に無い御開帳の時であった。
有難いことに内陣に入れていただき間近に拝観することができた。

金剛蔵王権現三像
金剛蔵王権現三像

金剛蔵王権現三体は背丈七メートルもあり色は青黒く憤怒の形相をしていて、悪魔降伏の凄まじい姿の立像であり圧倒される。
堂内を案内していただいた僧侶から、あらゆるものを司る神仏である蔵王権現が衆生の悩みや苦しみ救済するために釈迦如来、千手観世音菩薩、弥勒菩薩の姿で現れたものであると教えていただいた。静かな蔵王堂にしばらく座していると、森閑とした大自然の霊気に包まれ無念夢想の心境になるような不思議な感覚を覚えた。

吉野は平安時代のころから桜の名所として名高いが、元々は金峯山寺の開祖である役小角が蔵王権現の姿を山桜の木に彫刻し祀ったことに始まる。
以来、山桜の木はご神木とされ、大事に保護され伐ることは許されなくなる。
千年余にわたり桜の苗木の植樹が続けられ、全山が桜の木に覆われるようになったと伝えられている。
吉野の桜は、江戸末期にオオシマザクラとエドヒガンの交配によって作られたソメイヨシノという品種とは違う日本古来の山桜である。桜の名所は全国各地にあるが、吉野山の桜は平安時代から現在に至るまで数多の文人墨客が訪れ、多くの人々を魅了する格別なものである。
吉野では桜を眺めるのに一目千本と称されていて麓のほうから下千本、中千本、上千本、奥千本と呼ばれている。

吉水神社
吉水神社

吉野・大峰は古代から山岳信仰の聖地であり、熊野三山と高野山と併せて紀伊山地の霊場と参詣道としてユネスコ世界遺産に登録されている。吉野山中腹の桜中千本と呼ばれる地域には金峯山寺、吉水神社、竹林院、如意輪寺など歴史的建造物が多く存在している。
特に、吉水院には驚くような数奇な歴史的ドラマが繰り広げられていたことを実際に訪れてみて知ることになった。吉水院(明治以降は吉水神社)は杉、檜、桜、楓などの木立の中にあり、質素な檜皮葺きの書院造りの建物である。正面からは平屋のように見えるが、吉野建てと呼ばれる狭い傾斜地に建てられた三階建ての小規模な館である。
この吉水院に源義経、後醍醐天皇、豊臣秀吉という歴史上極めて著名な英傑三人が、時代は違うが同じ屋根の下で寝食したという史実を知り驚いた。

源義経像
源義経像

源義経は平治元年(1159年)に義朝の九男として生まれ、頼朝は異母兄である。平治の乱で父義朝が敗死したことにより鞍馬寺に預けられ少年期を過ごし、その後奥州藤原秀衡の庇護のもとに成長した。頼朝が平家打倒の旗揚げに伴い直ちに馳せ参じる。

義経武将姿像
義経武将姿像

平家物語に詳しく語られているが、義経は一の谷の戦いに次いで屋島の戦いに勝利し、遂に壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだ。
戦に長けた天才的な武将は京都に凱旋し、後白河法皇から左衛門尉(判官)の官位を授与される。しかしこうした義経の動きに警戒した頼朝から嫌疑を掛けられたため、鎌倉に赴き腰越で潔白の書状を出すが許されず追討される立場となった。追われる身となった義経は静御前、弁慶など少人数の従者と共に吉野山に逃れ、雪の降る山中の吉水院に五日ほど潜伏していたと伝えられている。
吉水院には今でも義経潜居の間と弁慶思案の間と呼ばれる部屋がある。
義経は追っ手が迫り来る中、大峰山方面へと逃亡することになるが女人禁制のため静御前を連れて行くことが出来ず、ここで永久の別れをすることになった。
静御前は捕らえられて鎌倉に送られ、鶴岡八幡宮の舞殿において頼朝と政子の前で歌い舞うことになった。

静御前の舞姿(葛飾北斎画)
静御前の舞姿(葛飾北斎画)

 しづやしづしづのおだまきくり返し昔を今になすよしもがな
 
 吉野山峯の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ恋しき

一方、義経主従は雪深い山中を逃亡して、その後の足取りは定かでないが安宅の関を経て奥州平泉まで落ちのびた。義経記ではこうした義経主従の逃亡の様子が哀調を持って語られている。歌舞伎では義経千本桜、勧進帳などが十八番の演目となっている。

義経遺品の鎧
義経遺品の鎧

義経潜居の間には義経の緋縅の鎧と静の赤い胸当てが置かれている。この場所で山伏姿に変えるために、鎧は要らなくなり遺されたものと想像される。
稀代の若き英雄義経と静の悲しい無常転変の哀話が胸を打つ。

時代は移り変わり、この吉野山に史上稀有なる波瀾万丈の後醍醐天皇が登場する。

後醍醐天皇像
後醍醐天皇像

後醍醐は文保2年(1318年)九十六代の天皇となり、朝廷中心の政治体制を進めようとするが鎌倉幕府と対立することになる。倒幕を図った正中の変と元弘の乱が失敗することによって一時隠岐島に流される。しかし隠岐島を脱出した後醍醐天皇は新田義貞、足利尊氏等と組み鎌倉幕府、北条執権政治を倒すにことに成功する。
その後建武の新政を進めるが専制的な政治手法に対して、足利尊氏等が反旗を翻しわずか四年ほどで新政権は崩壊してしまう。

南朝の皇居(吉水院)
南朝の皇居

三種の神器を持って吉野山に逃れた後醍醐天皇は、室町幕府が擁立した光明天皇の北朝に対して、この地に南朝を興し対抗した。
後醍醐天皇は、源義経が潜居したこの吉水院を一時期南朝の皇居とした。

後醍醐天皇の玉座
後醍醐天皇の玉座

吉水院の奥まった部屋に玉座の間があるが、天皇が執政していたとは思えない質素な狭い部屋で、上段に銀糸で作られた座布団が置かれているばかりである。寝室の枕元まで水の流れる音が聞こえるという天皇の和歌がある。

花にねてよしや吉野の吉水の枕のもとに石走る音

天皇の遺品として「蝉丸」という銘のある琵琶が遺されている。時折この琵琶を爪弾きながら自身の無常な変転を想い返していたのではないかと偲ばれる。
悲憤慷慨しつつ南朝の正当性を主張し続けたが、五十二歳で崩御された。

後醍醐天皇陵
後醍醐天皇陵

深い谷を隔てた如意輪寺の木立の中にひっそりとした陵がある。
後醍醐天皇の最後の遺勅に「玉骨はたとひ南山(吉野山)の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕(京都)の天を望まんと思ふ」とあり、この陵は北の京都を向いてつくられている。
後醍醐天皇没後、約六十年にわたり南北朝の争乱が続き、足利義満の斡旋によりようやく南北朝が合体することになる。太平記では激しい争乱の様子と絶えざる人間の相克が詳細に綴られている。
南朝と北朝のどちらが正統であるか長年にわたり論争が続いてきたが、明治維新の後、明治天皇は南朝が正当な皇統であると裁定した。
その後吉水院は後醍醐天皇、楠正成、宗信法印を祀る神社となった。
吉水神社の質素な玉座の間と寂然とした如意輪寺の陵を見て、後醍醐天皇の生涯が如何に波瀾に満ち有為転変なものであったかと感じ入った。

時代は更に巡りめぐって、この吉水院に戦国の覇者となった太閤豊臣秀吉が現れる。
足軽の子として生まれた木下藤吉郎は織田信長に見出され頭角を現す。
その特異の才覚によって墨俣一夜城の建設、小谷城の戦い、長篠の戦いなど数々の武功をたて織田家の有力な武将に引き立てられる。
本能寺の変を契機に明智光秀を倒し、柴田、長宗我部、島津、北条などを平定し天下統一を実現した。

豊臣秀吉像
豊臣秀吉像

権力を極めた豊臣秀吉は太閤検地、貢租徴収制度、惣無事令など政治改革を進めたが、一方芸能や遊興にも贅を尽くし茶の湯、能、絵画など絢爛な桃山文化を生み出した。
天下人となった秀吉はかねてより念願であった吉野の花見を挙行し天下に権勢を誇示した。この花見には徳川家康、前田利家、伊達政宗、千利休など五千人の供を従えて吉野山に登ったと云われている。

豊公吉野花見図屏風
豊公吉野花見図屏風

吉水院が花見の本陣として設営され、秀吉はここに五日間滞在した。
広間は豪華な障壁画で飾られる部屋に改造され、豊太閤花見の間と呼ばれている。その時に飾られた狩野永徳の屏風などが遺されている。
盛大な花見の宴と併せて、茶の湯の会や能楽も催されたと伝えられている。

秀吉も眺めた一目千本の桜4
秀吉も眺めた一目千本の桜

果てない夢の一つであった吉野の花見を実現した秀吉が詠んだ和歌がある。

 年月を心にかけし吉野山花の盛りを今日見つるかな

花の栄華は儚いもので、その後秀吉は文禄・慶長の役という無謀な朝鮮出兵による政情混乱の中で死去し、豊臣政権は終焉を迎えることになった。
天下人にまでなった太閤秀吉の辞世の和歌から夢まぼろしのような想いが伝わってくる。

 露と落ち露と消えにし我が身かな浪花の事は夢のまた夢

吉水院という吉野の山中の館において、源義経、後醍醐天皇、豊臣秀吉という日本史上名高い人物が、奇しくも同じ屋根の下に寝食した歴史に深い感慨を覚える。
このような数奇な変遷を見て来た館は日本の歴史上他に類を見ないであろう。まさに栄枯盛衰の歴史ドラマであり、流転無常の舞台を見るようである。

中千本を後にして、細い山道を上千本に向かって登って行く。上千本には義経の家臣佐藤忠信が追っ手の横川覚範と一戦を交え討ち取った花矢倉がある。歌舞伎義経千本桜の名場面の場所であり、花見の時節には最も眺望の良い場所とされている。
春の時節は吉野全山が満開の桜花で覆われるが、秋の桜の紅葉には華やかさがない。桜もみじは楓のような深紅に染まる紅葉とは違い地味な色合いであるが、この山には相応しい野趣のある景観であると感じられた。更に登って行くと吉野水分神社(みくまり)の社殿が望める。天武天皇の治世に慈雨を祈願したことが「続日本紀」に記録されている。
鬱蒼とした杉木立の山道を抜けるとようやく金峯神社のある奥千本に到達する。
ここは標高730mもあるので、下千本の開花から一月ほど遅れて開花する。
吉野山はそれだけ長い日数にわたって桜を楽しむことができるということである。しばらく休息の後、いよいよ西行庵を訪ねることにした。

西行は元永元年(1118年)出生し、佐藤義清として平安末期から鎌倉初期の時代に生きた武士、僧侶そして歌人である。18歳の時に兵衛尉に任官され鳥羽上皇の北面の武士として仕え、弓矢、馬術、詩歌、管弦にわたり文武両道に優れていた。しかし、23歳の若さで突然出家して法名西行と名乗る。
西行が生きた時代は保元・平治の乱、平家の滅亡、源氏の台頭そして度重なる天災によって社会が極度に混乱し疲弊し、血塗られた争乱が絶えず繰り広げられていた。

西行法師の旅姿(菊池容斎画)
西行法師の旅姿(菊池容斎画)

遁世した後、嵯峨、鞍馬山、吉野山、高野山、熊野などで草庵を結ぶが、特に吉野山に惹かれた西行は三年ほどこの山中で草庵生活を送っている。また、奥州平泉、中国路、四国路など生涯漂泊の行脚を続けている。
平泉には二度、三十歳と六十九歳の時に徒歩での長途の旅をしているが、きわめて強靭な身体と精神を合わせ持った人であることが想像される。
歌人として藤原俊成、定家とも親交があり、新古今和歌集、千載和歌集、山家集に多くの秀歌が載せられている。

目指す西行庵は奥千本の金峯神社を過ぎて更に三十分ほど登った山中にあった。
樹木で覆われた山と深い谷に沿った細い道を歩いて行くとわずかばかりの平らな場所に出る。

西行庵
西行庵

そこに三坪ほどの自然木の柱に土壁、杉皮葺きの質素な造りの草庵があり、西行の坐像が置かれている。山桜の木立に囲まれたこの草庵から、西行は桜の蕾が芽生え、花が咲き、散り行く姿を日々眺めていたことが想像される。

 吉野山こずえの花を見し日より心は身にもそはずなりにき

西行庵の眼前には深い谷があり、遥か彼方には大峯山などの山々が連なり、その先は熊野本宮につながる奥駆けの険しい道が続いている。近くには筧を通わって細い湧水が流れている。この水は西行にとって生きる上で欠かせない飲み水であったと思われる。

 とくとくと落ちる岩間の苔清水汲みほすほどもなき住まいかな

物音は何も聞こえず、ただコオロギのか細い鳴き声だけが耳に届くばかりである。

西行庵からの眺望
西行庵からの眺望

山奥の静寂で蕭条とした草庵生活は想像を絶するような孤独で厳しいものであったと思われる。このような天地自然の中で修行を続けることにより、身も心も山川草木に溶け込み無我の境地に達していたのではないだろうか。そして五感が研ぎ澄まされ、後世に遺される優れた数多の和歌が紡ぎ出されたものと思われる。
終生桜花を愛して止まなかった西行は、桜に自分の深い想いを重ねた和歌を詠んでいる。

 願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ

この歌の願いの通りに文治六年(1190年)桜の花咲くきさらぎの満月のころに七十三歳で入滅した。西行は和歌の分野では最高峰の歌人でありながら、草庵生活と漂泊の旅を続ける真なる修験者としての生涯であったとも言える。

松尾芭蕉は秋の吉野山と春の吉野山に二度登っている。尊崇する西行が草庵を結び、桜を愛でた吉野山に強く惹かれていたものと思われる。
平安後期の西行と江戸前期の芭蕉は500年ほどの年代の違いはあるが、芭蕉は西行を師と仰ぎ、奥の細道も吉野の山道もその足跡を辿り歌枕を訪ねる旅でもあった。

松尾芭蕉の旅姿(葛飾北斎画)
松尾芭蕉の旅姿(葛飾北斎画)

芭蕉は伊賀上野の下級武士の家に生まれ若年の頃から俳諧を学び、29歳の時に江戸に出て神田川工事の事務方の仕事などをしながら俳諧師の道を歩む。その後、深川の芭蕉庵を拠点にして宗匠として其角、杉風、嵐雪、去来、土芳など優れた門弟を育て、不易流行や風雅の誠など蕉風と呼ばれる芸術性と精神性の高い俳風を確立した。
野ざらし紀行、鹿島紀行、笈の小文、更科紀行、奥の細道など長途の旅をつづけ多くの名句を詠み、優れた紀行文を綴っている。また、高弟たちが芭蕉の言行と俳諧精神を「去来抄」「三冊子」などの俳論書に編纂して世の中に広めた。
芭蕉の俳句は300年余りの時空を超えて、現代に生きる私たちも共感することができる作品であり、芭蕉は国民的文芸として広く浸透している現代俳句の源流をつくった俳聖とも言われている。

笈の小文の旅では春の吉野山に登り「吉野の花に三日とどまりて曙、黄昏の景色にむかひ有明の月の哀れなさまなど心にせまり胸にみちて」と綴っている。
花の盛りの吉野を旅する浮き浮きとした気分が句に詠まれている。

春の吉野山
春の吉野山

 よし野にて桜見せうぞ檜木笠

 花の陰謡に似たる旅寝かな

野ざらし紀行では秋の吉野を訪れ「独り吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く白雲峰に重なり、烟雨谷を埋んで山賤の家ところどころに小さく、西に木を伐る音東にひびき、院院の鐘声心の底にこたふ。」と綴っている。
深まる秋の寂しい状景と心象を句に詠んでいる。

秋の吉野山
秋の吉野山

砧打ちて我に聞かせよや坊が妻

露とくとくこころみに浮世すゝがばや

芭蕉は西行と同じように旅を重ね旅を終の棲家として漂白の生涯を送った。
旅の途次大阪南御堂の門人の屋敷で最期を迎え、臨終の間際で詠んだ句がある。
 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
 

晩秋の山道を下り吉野山の麓にたどり着いた時は既に夕暮れになっていた。
とばりの降りた古都大和の町並みの中に明かりを灯した古びた小料理店を見つけました。静かに落ち着いた店の中で「神韻」というこの地の銘酒をいただきながら、吉野山で見聞したさまざまなことをしみじみと反芻しました。
千四百年にわたる夢まぼろしのような吉野の歴史と風土に触れ、歴史上著名な英傑や文人の境涯や想いを知り、そして人の世の諸行無常と生々流転に深い感慨を覚えました。
まさに神韻を感じるまほろばの夜でありました。
                     
                                                 

掲載日:2020 年6 月17日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)






奥の細道 北陸紀行

                             [野村邦男]
芭蕉の奥の細道の旅は出羽三山を巡った後、越後、越中、越前へと進みます。
今回は日本海に沿った北陸路を歩き、芭蕉の足跡と共に良寛や道元の事跡を訪ねることにしました。また、若狭湾では景勝の地の人々の暮らしと現代文明の相克を垣間見ることになりました。

芭蕉と曾良は霞たつ春に江戸深川を出立し、初夏のころには日光、那須野、梅雨の時節には宮城野、松島、夏の暑さの厳しい時期に平泉、山寺、出羽三山を訪れている。この頃には長途の旅に体力が相当消耗し疲労が増していたと思われる。最上川を下り酒田に出ると目の前には日本海が広がり、これまでの旅路とは違った風景に接し、心身ともに癒されたのではなかろうか。出羽路での修験者のような峻厳な句風から少し気持ちが安らいだような句を詠むようになる。

日本海と鳥海山
日本海と鳥海山

鳥海山の美しい山容を眺めながら羽後の象潟(きさかた)に向かう。
宮城の松島と並ぶ風光明媚な象潟では中国古代の美女西施(せいし)になぞらえた句を詠んでいる。ねぶの花は合歓の花のこと。
   
   象潟や雨に西施がねぶの花

日本海の海沿いの長い道のりを羽後、出羽から越後に向かって曾良と共に歩いて行く。夏のじりじりとした日差しが少し和らぎ秋風が感じられる時節に越後路に入ることになった。丁度七夕のころ、海原の彼方に佐渡島の島影が見える出雲崎にようやくたどり着く。

出雲崎から眺める佐渡島
出雲崎から眺める佐渡島

眼前に波音のとどろく日本海が広がり、夜空には満天の星が輝いているという壮大な光景を眺めた芭蕉は宇宙と渾然一体となるような感慨を覚えたのではなかろうか。
ここで後世に遺る名句が自然に湧き出てきたものと思われる。

    荒海や佐渡に横たふ天の河

3日本海に架かる天の川
日本海に架かる天の川

私も三百余年前に芭蕉が眺めた天の川を見てみたいという思いから出雲崎を訪れた。
江戸時代佐渡島は徳川幕府直轄の金蔵の島であり、出雲崎は佐渡島から掘り出される金を陸揚げする湊として栄え、百軒ほどの回船問屋があったようである。
現在は漁業を主体にした地域で、かつてのような賑やかな風情はなく、この地特有の切り妻屋根の奥行きのある家並みが静かに軒を連ねている。
「佐平次」という漁師宿に宿泊することにして、夕食をとり夜になるのを待った。宿のすぐ前は海で波音が聞こえ、佐渡島の島影が夕闇の中に浮かんで見える。下駄履きで海辺まで歩いて行き、夜空を見上げるとあいにく雲がかかっていて星空が見えない。しかたがないので一度宿に戻り暫くしてから再び海辺に行くと今度は雲の切れ目から星が見え出し、時間が経つにつれてどんどんと星空が広がってゆく。人工的な光線の溢れる都会では見ることができない天の川がはっきりと眺めることができた。

北の空から南の空にかけて無数の星が輝き、あたかも川が流れるように帯状に横たわっている。
天空にはベガ(織女星)、アルタイル(牽牛星)、デネブ(白鳥座α星)の三輝星が見え、そこには昔の人々が思い描いた七夕神話の世界があるように感じられた。広大無辺な宇宙と悠久の時の流れの中にいるような感慨を覚えた。

芭蕉が訪れた出雲崎は後年良寛が生まれ育ち、草庵を結んだ地でもある。
良寛は江戸後期に出雲崎の名主の長男として生まれたが、十八歳の頃に出家し備中玉島の円通寺で修行得度した禅僧である。諸国行脚の後、故郷に戻り国上山の山腹の小さな草庵(五合庵)に終生住まいして脱俗の生涯を送った。

良寛の五合庵
良寛の五合庵

越後の山中独居の無一物の庵生活は厳しいものであり、特に風雪の激しい冬場の生活は常人には耐えられないものであったと想像される。
人が生きることができる極限状態に身を置きながら、常に泰然自若としていて慈愛の心が滲みでるような人柄であった伝えられている。折々山から里に下りてきて村人や子供たちに優しく接し多くの人々から慕われていたと言われている。

5子供たちと遊ぶ良寛
子供たちと遊ぶ良寛

寺の住職にはならず、世俗の一切の名利を離れた暮らしは托鉢に頼る貧しいものであったが、心は豊かで広々としていたようである。
良寛が訪れた家には得もいえぬ温かい空気が漂い、帰った後も数日の間その家には和気が満ちていたと「良寛禅師奇話」という書物に記されている。
数多くの優れた和歌、漢詩、俳句そして墨書が遺されていて、いずれの作品も良寛の純真自在にして閑雅な心境から生み出されたものと思われる。
良寛記念館に展示されている数々の作品を実際に見ると、何ものにもとらわれない伸びやかな作風に魅了される。現代に生きる者として、良寛の清貧な生き方に学ぶことが多々あるように思われた。
出雲崎の海辺には良寛和尚の座像があり、近くの丘の上には子供らと遊ぶ像が建てられている。
良寛の人柄が偲ばれる和歌と俳句がある。
   
   霞立つ永き春日を子供らと手毬つきつつ今日も暮らしつ
    
   鉄鉢に明日の米あり夕涼み

芭蕉は出雲崎を後にして加賀へと向かう。越後と越中の境に北陸一の難所といわれる「親不知・子不知」がある。

親不知・子不知の絶景
親不知・子不知

日本海の荒波が岩肌を削る断崖が続き、その下にわずかばかりの砂浜がある。狭い道筋を歩く親と子が離れ離れになって波にさらわれてしまうような危険な磯であるということから名がつけられた。現在はこの狭い海岸沿いに北陸本線と北陸高速道が架けられ列車や車が走行している。
芭蕉と曾良はこの親不知・子不知の磯を何とか無事に抜けて市振に着くことができた。

市振萩の宿(蕪村画)
市振萩の宿

市振の質素な旅籠に泊まり寝ていると、隣の部屋から二人の若い女人と男の声が聞こえて来る。
二人は伊勢参りに向かう新潟の遊女で、一人はここまで見送りについて来た年老いた男である。日ごろの悲しい因業と暮らしぶりを嘆くような話が交わされているのを、襖越しに聞きながら寝入ったと綴っている。そして芭蕉としては珍しい女人の艶のある句を詠む。
    
     一つ家に遊女も寝たり萩と月

後年、江戸期の俳人であり画家である与謝蕪村が奥の細道の俳画を描いている。

芭蕉は加賀にしばらく滞在し多くの門人たちと句会を幾度も持った後、小松に向かう。
芭蕉は多太神社を訪ね、この地で生涯を戦いに生きた老将斎藤実盛に思いを馳せる。もともと源氏の家臣であった実盛は、若い頃の木曽義仲の命を助けた因縁であったが、後年止む無く平氏方の武将として義仲軍と戦い命を落すことになった。実盛は老体に鞭打って4.4kgもある重い兜を被り、白髪を黒く染め若武者のような装いで戦ったと記されている。
義仲は命の恩人であった実盛の亡骸を前にして悲痛の涙を落し、その甲(かぶと)を多太神社に納めた。能「実盛」によってそうした故事が後世に伝えられている。芭蕉は有為転変、諸行無常の老将を偲び一句を詠む。
   
   むざんやな甲の下のきりぎりす

能・実盛
能・実盛

北陸路の旅は、出雲崎、市振、金沢、小松、山中と続き大聖寺の地に至る。
山中では江戸出立以来、苦難の旅を共にしてきた曾良が病気のため伊勢長島の
親戚を頼って別れて行くことになる。
曾良はこれからの旅先の思いを一句に詠む。
    
    行き行きて倒れ伏すとも萩の原 

芭蕉は笠に書いた同行二人の書付を別れの涙で消すことになると一句に詠む。  
    
    今日よりは書付消さん笠の露    

芭蕉は曾良と別れた後、九谷焼で有名な加賀の大聖寺に向かい一人で全昌寺という禅寺に一泊する。
夜が明け始める頃読経の声が聞こえ、そのうちに鐘板がなるので食堂(じきどう)に入り朝食をとった。出立の用意をしていると、若い僧たちが紙と筆を持って句を所望して来た。一宿のお礼に庭を掃き清めて出立するところであるが、一句を書いて渡したと文に綴っている。
    庭掃きて出でばや寺に散る柳

全昌寺の芭蕉と僧侶たち(蕪村画)
全昌寺の芭蕉と僧侶たち

芭蕉を敬慕していた蕪村は、この場面も俳画に描いている。
この全昌寺を訪れ、芭蕉の足跡を辿る旅をしている者ですが拝観させていただきたいと申し入れると、住職が出てきて境内を案内してくださった。
年輪を重ねた枝垂れ柳が今でも沢山の葉を茂らせている。別棟にある五百羅漢も見ごたがあり、一体一体全てが違った姿と貌の表情をしている。
以前に横浜鶴見の総持寺に参禅したことがあると話をすると、跡継ぎの子息も総持寺で修行したとのことであった。親近感を得たのか、本堂や僧坊に入れていただき、芭蕉が泊まった部屋にも案内していただいた。
住職が大事にしている芭蕉の高弟杉山杉風が自ら手彫りした小ぶりの芭蕉坐像を見せていただいた。

10芭蕉座像(杉風作) (2)
芭蕉座像

著名な登山家であり「日本百名山」の著者でもある深田久弥は、この地の出身であり俳句に親しんでいたとのこと。句会の主宰として全昌寺でしばしば句会を催していたとお聞きした。

芭蕉は加賀の地を後にして越前に入り、西行が歌に詠んだ吉崎の入江を小舟で巡り汐越の松を尋ねた。そこから深山幽谷の地にある曹洞宗大本山永平寺を訪れ参拝している。
「道元禅師の御寺なり 邦畿千里を避けてかかる山陰に跡を残したまふも貴きゆえありとかや」と奥の細道に綴っている。

11道元禅師
道元禅師

永平寺は道元が13世紀中ごろ開いた禅の道場であり、時の権力が及ばないよう京の都を遥かに離れた山中に創建したものである。
十万坪の境内は昼間でも森閑としていて伽藍は静寂の中にある。
道元禅師の95巻にのぼる法語集「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)は禅の本質と規範が詳しく記述されていて、現代社会に通じる哲学の書とも云われている。
道元のこの教えに従い、永平寺では礼節と規律が開山以来守ら
れている。修行僧は只管打坐の教えの通りにひたすらに坐禅を行い心身脱落の境地を求める。

12永平寺の修行僧
永平寺の修行僧

また、托鉢、庭掃除、廊下拭き、東厨(便所)掃除、そして食事を作ることも大事な修行とされている。
廊下で出会う僧は必ず黙礼して歩を進め、清清しさを感じる。
許しを得て坐禅堂で坐禅をさせていただいたが、凡人ゆえ雑念が消えては
浮かび、蝉の声が耳に入りなかなか瞑想の境地には至らなかった。
道元の教えの中で「知足」「利他」「愛語」という三つの言葉が心に残った。
知足とは人の欲望は限りがないが、足るを知ることにより心が豊かになる。
利他とは自己本位にならずに、先ず他者のことを思いやることが大切である。
愛語とは優しく慈しみのある心と言葉によって和やかな人の交わりができる。こうした教えは自分自身への戒めであると自覚すると共に、現代に生きる
人間にとっても普遍性のあるメッセージであると思われた。
道元の詠んだ和歌には簡潔清澄にして心に響くものがある。

    春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて涼しかりけり

芭蕉が木の芽峠を越えて敦賀に入ったのは、仲秋の名月の前日である。
敦賀は当時日本海航路の屈指の湊町であり、北前船の往来で繁盛していた。

13気比の松原
気比の松原

気比(けひ)の松原は青い海、白い砂浜と緑の松林が見渡す限り続いていて、三保の松原、虹ノ松原と並ぶ美しい景観である。
越前一の宮として古代より信仰を集めている気比神宮には、その昔遊行上人が荒廃していた気比神宮の境内を整備する為に自ら草を刈り、真砂を担いだという「砂持ち」の故事がある。
芭蕉は遊行上人を偲びながら名月をしみじみと眺めたのであろう。
「社頭神さびて松の木の間に月の漏り入りたる御前の白砂霜を敷けるがごとし」と文中に綴っている。

    月清し遊行の持てる砂の上

仲秋の名月のあくる日、芭蕉は敦賀半島にある色ヶ浜に小船に乗って訪れる。
浜辺にはうす紅色をした美しい小貝に混じって、萩の花が散りこぼれている
秋の情景に触れ一句を詠む。
  
   波の間や小貝にまじる萩の塵

14敦賀・色ヶ浜の海原
敦賀・色が浜の海原

芭蕉は敦賀を後にして奥の細道の終着地、美濃の大垣に向かう。
旅の途中で別れた曾良も駆けつけ、露通、越人などの門人たちが多数集まって来て、生きて再会することができたことを喜び合った。
春に江戸を出立し秋の深まる大垣に到達するまで六百里(2400km)百五十五日の長途の旅はここで終わる。
粗末な墨染の衣に菅笠、黒竹の杖そして紙衾(かみぶすま)という和紙で仕立てた夜具を携え、全て徒歩での旅であった。
「旅のものうさもいまだやまざるに長月六日になれば伊勢の本宮拝まんとまた船に乗りて」と述べて、再び新たな旅に出かけることになる。
旅行く人と見送る人の別れの場面を桑名の蛤の蓋と身に懸けた句を詠んでいる。

15奥の細道むすびの地大垣2
奥の細道結びの地大垣

    蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

一所不在の旅に生きる芭蕉の精神が垣間見える奥の細道の結びの句である。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」
過ぎ行く時間も人の一生も全ては旅のようなものだという言葉の通り
芭蕉の俳諧の詩的境地をめざす果てしない旅は続くことになる。

若狭余話
若狭湾はコバルトブルーの海と白砂青松の美しい景観が広がっている。

16若狭湾の景観
若狭湾の景観

若狭湾の中に更に敦賀湾、美浜湾、小浜湾、舞鶴湾があるという二重の湾を形成している。日本海の荒波をやわらげる特有の地形であるために良好な湊であり、豊かな漁場でもある。古代より朝鮮半島や中国各地から多くの渡来人が、敦賀の入江から上陸したという歴史があり、江戸時代には北前船の寄港地として栄えていた。現在は風光明媚な地として若狭国定公園となっている。

若狭湾沿いに敦賀と舞鶴間を結ぶJR小浜線に乗って美浜まで行った。
美浜駅前は想像していた以上に寂れていて食堂を探しても見当たらない。
線路沿って暫らく歩いて行くと小さな食堂らしき民家を見つけた。
高齢の女性と娘の二人で、近隣の働いている人達のために昼間だけ食事を出しているとのことであった。食事をすませたお客が皆帰った後、いろいろ話を聞かせてもらうことができた。美浜は以前には関西や名古屋などから大勢の家族連れや若い人達が観光や海水浴に来て賑わっていたが、多くの原発施設が建設されるに従い観光客は減り廃れるようになったとのこと。
福島の原発事故以来、寝ても覚めても原発のことが気がかりで危険を感じている、
そして娘には幼い子供がいるのでもしもの場合が心配だと語っていた。それでも生活があるので、この地を離れることはできないという言葉が重く
感じられた。
食堂を出て二十分ほど歩くと美浜の海辺に出た。美浜は名前の通り一昔前までは大変美しい砂浜が広がり、夏には沢山の人々が海水浴を楽しんでいたそうであるが、現在は閑散荒涼としていて人影は無く、一時間ほど浜辺を歩いたが人に出会うことはなかった。

17美浜原子力発電所
美浜原子力発電所

原発の基地になることにより、ひと時の繁栄と引き換えにこの地の人々が失ったものは大きいと思われる。一方、こうした辺鄙な農漁村の人々の犠牲の上に、都会の快適利便な生活を維持するために多くの原発が造られたという現代社会のゆがんだ構図を自覚させられた。

敦賀半島の東側には芭蕉が訪れた色ヶ浜近くに敦賀原発(2基)がある。
半島の西側の美浜の海辺に立って眺めると、青い海の彼方、海岸の台地に灰色の美浜原子力発電所(3基)の施設がはっきりと見える。
近くには高速増殖原型炉(実験炉)「もんじゅ」があり、一兆円以上の公的資金が投入されたが、重大なトラブルが続き稼動の見込みがまったく立たないため廃炉が決定された。MOX燃料新型転換炉「ふげん」は一度も稼働することなく失敗に終わり廃炉にすることが既に決定されている。

更に若狭湾に沿って大飯原発(4基)と高浜原発(4基)が建ち並んでいる。
福井県若狭湾には何故に15基という異常な数の原発がこれほどまでに集中
して建設されてしまったのかとつくづくと考えさせられる。

18若狭湾の原発群と被害想定図
若狭湾の原発群と被害想定図

また若狭湾の原発密集地帯で、万一福島原発のような大事故が発生したならば近くの琵琶湖は放射性物質によって水質汚染され、関西の生活圏には壊滅的な被害が生じる。世界文化遺産が多数ある京都を訪れることもできなくなることが予測される。

現在原発は日本全国に総計59基あり、休止中・安全審査中が24基、再稼働中が9基、廃炉・解体中が26基、別に建設中断中の原発が2基ある。

19六ケ所村核燃料再処理工場群
六ヶ所村核燃料再処理工場群

更に青森下北半島の六ヶ所村にはプルサーマルという巨大な核燃料サイクル基地があり、使用済み核燃料再処理工場、ウラン濃縮工場、放射性廃棄物貯蔵施設などが建設されている。核燃料再処理工場に既に2.2兆円の建設費が投入されていて、運転・保守・解体等を含めた総費用は11兆円という途方もない資金が必要だと電気事業連合会が公表している。
しかし、これらの再処理設備は、敦賀の「もんじゅ」の廃炉決定によりプルサーマルの構想が破綻し、実用化の見通しは立っていないとのことである。
人の目の届かない隔絶されたこの基地にはウラン、プルトニウム、核分裂
生成物などの格段に危険度の高い物質が沢山あり、長崎原爆5000発分に相当するプルトニュウム45トンが貯蔵されているという恐ろしい現実も存在する。

人口密集した都会から遠く離れた場所に、そして風光明媚な海岸に危険極まりない原発がどういう経緯で建設されてしまったか考えさせられる。
第二次大戦後、日本は焦土の中から復興し目覚しい高度経済成長を成し遂げた。
結果として、生活環境が見違えるようによくなり快適で利便性の高い生活を享受することができるようになった。電気、ガス、水道など不足することを心配することなく使い放題の生活に慣れてしまっている。そのためにエネルギー需要の拡大に対応する方策として、この50年間に原発の増設が進められた。

20福島原発事故
福島原発事故

21メルトダウンした原子炉
メルトダウンした原子炉

しかしながら福島原発の大事故を契機に、原発は人間の技術とか知恵では到底制御できないものであることを知ることになった。ひとたび事故が起これば壊滅的な被害が発生し、社会が崩壊し、何十万人、何百万人、場合によっては何千万人という生活者が避難せざるを得なくなる。福島原発事故の場合は廃炉には何十年もかかり、81兆円(日本経済研究センター試算)という気の遠くなるような巨額の事故対応・処理費用が必要となり、国民一人ひとりが負担することになる。
また行き場のない一時保管中の使用済み核燃料は18000トンあり、最終処理する方法と場所についてはまったく見通しが無いというのが現実の状況である。
フィンランドのオンカロのように高レベル放射性廃棄物を地中深く埋めたとしても、無害な物質となるには10万年以上の時間がかかると云われている。
これは人類という生き物の尺度を越えた時間である。
更に深刻なのは日本列島が地震源のプレートの上に乗っているため、マグニチュード9前後の巨大地震が発生する可能性があること、そして大きな津波が襲う危険性が常にあることを自覚しておく必要がある。また、今後テロ攻撃の標的にされる危険性も想定されるとのことである。
こうした原発の抱える恐ろしい現実と問題があるにもかかわらず、一部の政治家、電力事業者、財界人、官僚、学者が依然として原発を稼動させようとしている。
原発は必要ないと思う一般庶民の正気と原発を強引に推進する人達の狂気との相克がいつまで続くのであろうか。

22太陽光発電所
太陽光発電所
'
普通の生活者として冷静に考えた場合、これほど危険性のある原発に早く決別して、長期的な視点から太陽光、風力、地熱、水力、バイオマスなどの再生可能エネルギーを拡大する方向に転換するべきであるとあらためて思う。
日本にはこうした自然資源が充分に存在し、活用する技術的ポテンシャルがあり、地方経済の活性化と雇用の増大にも有効であると言われている。

23風力発電所
風力発電所

環境問題の観点からも、早期に電気需要の過半を再生可能エネルギーでまかなうようにすることが国際社会からも求められている。
一方、科学技術によってもたらされた快適で便利な生活を見直して、過剰な人工物に囲まれ、過剰なエネルギーを消費する生活から、森や海や農地などが生み出す恵みを大切し、自然環境と共存する生活に移行することが必要である。
先ずは自分自身のこととして、無駄の多い生活様式をもっと簡素にして余分なエネルギーや物資を使わないライフスタイルにしなければいけないと反省した。

美浜の海辺に座り、太古から続く青く美しい海原と現代科学技術が造り出した不気味な原子力発電所の建造物をしばらく眺めていました。
芭蕉の自然に対する畏怖の念と人の営みを大事にする俳諧精神、良寛の物よりも心の豊かさを求める清貧な生き方、道元の知足・利他・愛語という普遍的な教えなどを思い浮かべながら思案するひと時を過ごしました。             
             

掲載日:2020年4月10日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)
                 





奥の細道 出羽紀行  

【 野村邦男 】

松尾芭蕉の「奥の細道」の書き出しは「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり 舟の上に生涯を浮かべ馬の口をとらへて老いを迎ふる者は日々旅にして旅を栖とす」と始まる。

奥の細道の旅図 (002)
奥の細道の旅図

芭蕉はかねてより江戸や京とは違う風土と文化のある陸奥みちのく(現在の東北地方)を旅し、西行の歌枕を訪ねたいという思いを持っていた。
元禄二年(1689年)弥生の末(新暦5月上旬)、江戸深川の草庵を引き払い前途六百里(2400km)の旅に出る。墨染めの衣に草鞋・菅笠・一本の杖そして夜具の紙子・雨具・墨・筆だけを持つ旅姿であった。当時は翁と呼ばれるような46歳の年齢であり、再び生きて戻れるかわからない覚悟の旅でもあった。

芭蕉と曽良の旅姿(森川許六画) (002)
芭蕉と曽良の旅姿

弟子の曽良を伴い、隅田川を舟でのぼり千住から日光、那須野を経ておよそ1ヵ月後に奥州への入口である白河の関に至る。
更に北上を続け宮城野、松島を巡り奥の細道前半の目的地である平泉にたどり着く。平泉では奥州藤原三代の栄枯盛衰と源義経の最後の地を眼前にして深い感慨に浸った。

夏草や兵(つわもの)が夢の跡

芭蕉の旅は奥羽山脈の山刀伐峠を越えていよいよ出羽に入る。
尾花沢、山寺、最上川、羽黒山・月山・湯殿山、酒田を巡り、後世に遺るような数々の優れた句を詠んでいる。
今回、私は芭蕉が歩いた出羽の旅路を実際に辿り、それぞれの土地の風物に触れ、名句が生れた景観や場面に接することがきればとの思いで旅をすることにしました。

尾花沢の紅花畑 (002)
尾花沢の紅花畑

芭蕉は尾花沢にしばらく逗留して奥の細道前半の旅の疲れを癒す。
尾花沢は江戸時代染料や頬紅などの原料である紅花の産地として栄えた土地であり、芭蕉を慕う俳人たちから温かいもてなしを受けた。
江戸時代は俳諧が大変盛んで、和歌とは違い武士、農民、商人、僧侶など身分を超えて誰でも平等に俳諧の世界に学び遊ぶことができた。
芭蕉は伊賀上野の出身で若いころから俳諧に親しみ才能を磨いていたが、29歳の時に江戸に出て俳諧師として生涯を送るようになる。
当時の俳諧に新風を吹き込み革新的な蕉風俳諧を創り上げ、去来、其角、嵐雪など優れた俳人を多く育てた。地方にも芭蕉を慕う多くの俳人がいて、奥の細道の旅の各地で句会を催している。

尾花沢を後にした芭蕉は出羽を代表する古刹立石寺に向かう。
古くから山寺の名で親しまれている寺は、平安時代初期に慈覚大師・円仁が開いたとされる天台宗の宝珠山立石寺のこと。
立石寺は一山全体が寺領で、切り立った岩に貼り付くように多くの仏閣が点在している。奥の院がある山頂までは1015段の石段が続く。かつて修行の僧侶たちが登り降りしていたこの石段を登って行くと、樹齢500年を超える杉木立の間に凝灰岩でできた巨大な岩が姿を現す。
このあたりで芭蕉が聞いたと同じように今でも蝉の声がまさに時雨の様に降り注いでる。そして岩に巌を重ねた山肌に松柏が覆い静寂な霊気が漂っている。

岩にしみいる蝉の声 (002)
蝉時雨の注ぐ岩

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

芭蕉は「桂景寂寞として心すみゆくのみおぼゆ」と述べているが、まさに研ぎ澄まされた感性によって生み出された句であることが実感される。蝉、樹木、岩といった自然と芭蕉の心身が融合一体の境地に至り、三百年を超えてなお現代の人にまで共感をもたらす名句が生まれたものと思われる。

石段を登りきったところに奥の院があり、その山頂近くに百丈岩と呼ばれる巨岩の上に開山堂と納経堂が置かれている。

岩上の開山堂と納経堂 (002)
百丈岩上の開山堂と納経堂

厳しい風雪に耐えて小さな堂が千年もの間壊れずに建っていることに驚かされる
また奥の院の近くには京都清水寺の舞台の様な造りの五大堂があり、そこから眺める景色は絶景である。眼下の遙か下のほうに村落があり、昔ながらの家々が点在しているのが見える。

五大堂からの眺望 (002)
五大堂からの眺望

石段を下りながら僧坊に立ち寄ってみると、小さな庭に茄子、胡瓜などの夏野菜がつくられていた。世俗を離れた山寺の中に、日常の質朴とした生活の営みが行われているのを見て何か親しみを感じた。京都の豪奢な大寺院にはない仏教本来の佇まいがそこにはあるように思われた。
山を下り山裾の境内にある根本中堂の中に入れていただき参拝をした。
本堂の中では比叡山延暦寺から分けられた法燈が1100年にわたり燃え続け、本尊薬師如来坐像が祀られている。
外は蝉の声が盛んであるが、堂内はいたって静かで森閑としている。座していると最澄の教えである「一隅を照らす」という墨筆が目に入りしばらく眺めている中に、こうした生き方を大切にしたいものと胸にしみ込んだ。
山寺をあとにした芭蕉は最上川の中流にある大石田に向かう。
最上川は吾妻連峰を源にして出羽の国を縦断し日本海に注ぐ、全長229キロメートルの大河である。
当時、最上川は出羽最大の水運の河川であり、大石田は上流から運ばれてきた米や紅花の集積地であった。こうした産物は大石田から川を下り酒田の湊で北前船に積み替えられ日本海を経由して京や大阪に運ばれた。芭蕉は大石田で船問屋を営む高野一栄の家に数日滞在し句会を開いている。ここで詠まれたのが「五月雨を集めて涼し最上川」という当初の挨拶句である。
後日、芭蕉は両岸が迫って急流となる舟下りを実際に体験して当初の句の表現を改めている。

五月雨を集めて早し最上川

舟下りで濁流の速度と水量を実際に体感することにより、句会の席で考えた「涼し」を「早し」に表現を改めた。推敲を重んじる芭蕉の作句への姿勢が表れている。

最上川の流れ (002)
最上川の流れ

芭蕉と同じように最上川の舟下りをすることにした。今では観光用の舟便があり、船頭の説明や舟唄を聞きながら舟下りを楽しむことができる。
川の流れは水量が多く、岸辺には山が被さるように迫り、草木が生い茂っている。
芭蕉が見た白糸の滝も枯渇することなく流れ落ち、古びた仙人堂も岸の近くに立っている。流れの中ほどの岩の上には青鷺が一羽ぽつねんと佇んでいて、

白糸の滝と仙人堂 (002)
白糸の滝と仙人堂

上空には鳶が輪をかくようにゆっくりと飛翔している。
川岸に自動車の走る姿が見えなければ、昔の状景が300年の時空を超えて眼前にあるように思えた。

芭蕉は最上川下りの狩川というところで舟を降り、奥の細道の旅で最も強い想いを抱いていた出羽三山に登ることになる。
出羽三山の羽黒山、月山、湯殿山は古来より山岳信仰の霊場であり、修験道の山として知られている。出羽三山に登り修行を行う人は先ず羽黒山を目指す。羽黒山の麓には信者が宿泊する宿坊があり、ここに設けられている神殿でお祓いを受け、身を清めてから山に入る。

羽黒神社 (002)
羽黒神社

羽黒山への登り口にある随神門をくぐると山の全域が霊場になる。ここから山頂まで2446段の石段があり、石段の両側には樹齢数百年を超える杉木立が鬱蒼として続いている。中腹まで登ると千年以上前に平将門が建立したと伝えられる五重塔(国宝)が姿を現す。

羽黒山五重塔 (003)
羽黒山五重塔

大寺院にある五重塔とは違い''''''''比較的小さな塔であるが精巧に造られていて古びた趣がある。
長年の厳しい風雪が刻んだ歴史が感じられ、まわりの杉木立の中に溶け込んでいるように見える。
更に石段を登って行くと茶店があり歩き疲れた人々がここで休憩をとる。
名物の力餅を食べていると、四方から出羽弁をはじめ津軽弁、福島弁などのお国訛りが聞こえてきた。東北一帯から信者や参拝者がこの山を目指してやってきているのであろう。
この茶店からさらに石段を登ると、右手に夏草の生い茂る細い道がある。
その道を辿っていくと、芭蕉が三山参拝の前後に泊まった南谷別院跡が現れる。
芭蕉はこの南谷で会覚阿闍梨(えがくあじゃり)の手厚いもてなしを受け、俳諧歌仙を巻いている。

有難や雪をかほらす南谷

谷間にはまだ雪が残る南谷の方から清涼な風が、雪を香らせるように吹いて来るという霊地への挨拶句となっている。
この地を出てしばらく登って行くと山頂に辿り着く。山頂には出羽三山の祭神を合わせて祀る合祭殿があり、冬場には月山に登れないためここで三山の参詣をしたことになると神社由縁にある。
芭蕉は羽黒山で句会を催しながら六日間滞在した後、三山の中心である月山に向かう。月山は標高1984メートルもある高い山であり、夏でも雪が消えずに残っている。
芭蕉は白装束に身を包み、修験者が被る宝冠を頭にして草鞋履きで曾良と強力の三人で一歩一歩登って行く。
「雲霧山気の中 氷雪を踏みて登ること八里息絶え身凍えて」と綴っているように、延々と続く岩と残雪の山道を登ることは実に厳しい難行苦行であったことが想像される。
芭蕉が風雅を求める漂泊の俳人と一般的に云われるが、実際は厳しい環境に身を置いて精神的なものを追い求める修験者であったのではないかと思われた。
当時既に翁と呼ばれていた46歳の高齢者であり持病のある身でありながら、極めて強靭な精神力を持っていたことに驚かされる。

月山と雲の峰 (002)
月山と雲の峰

雲の峰いくつ崩れて月の山

雲の峰が幾つも立ち上がり崩れる天空の動きの中から月山が月の光に照ら
されて、雄大で神秘的な山容を現したという感嘆の句詠である。
「頂上に至れば日没して月顕はる笹を敷き篠を枕として臥して明くるを待つ」

月山の山頂 (002)
月山の山頂

現代と違い防寒具もテントもなく雪の残る山の頂で野宿することは想像を越えるものである。それだけに広大無辺の宇宙と森羅万象の自然の景観に芭蕉は深い感動を覚えたものと思われる。

月山は7月1日が山開きで10月中旬には閉ざれる、冬は積雪が十メートルを越えるため立ち入ることができない。
現在では八合目までバスが運んでくれる、また宿泊ができる山小屋もある。
白木の質素な鳥居があり、ここをくぐると月山の霊域に入る。しばらく登ると弥陀ヶ原と云う広大な湿原が広がっている。
多数の池塘がありミズバショウ、ニッコウキスゲ、ミヤマキンポウゲ、クロユリなどの高山植物の花畑がある。カルガモやヒバリの姿を見ることができる。
ここから山容を眺めるとあちこちの山襞に雪渓が見られる。

月山弥陀ヶ原 (002)
月山弥陀ヶ原

いにしえの人々がこの湿原を弥陀ヶ原と名付けたのは、阿弥陀仏のおわす浄土のように感じていたのではないかと思われた。
弥陀ヶ原を過ぎると頂上に向かう険しい岩と石の登山道となる。白装束の信者が列をなして登っている姿を見かけた。頂上には風雪に耐えられるように石垣で囲まれた月山神社があり、月山の名の由来となった月読命(つきよみのみこと)が祀られている。

芭蕉は野宿の翌朝、日の出とともに強力の先導で月山から湯殿山に向かう。
湯殿山は1504メートルの山なので500メートルほど下ることになる。
下山途中、「月山」という名剣を打つ鍛冶小屋に立ち寄る。山中深いところで潔斎して剣を鍛える鍛冶師の一道に徹した姿に心を打たれている。
また、積雪に耐えた三尺ほどの桜の木に花のつぼみが半ば開いている遅桜を見かけ、自然の理とはいえ厳しい環境で花を咲かせる命は健気でいじらしいと書きとめている。
出羽三山を巡り参拝することは、人が生まれ変わり新たな道を歩むことができると古来より信仰されてきた。

湯殿山神社への山道 (002)
湯殿山神社への山道

特に湯殿山神社の御神体は神秘のヴェールに包まれていて昔からその様子を人に語ることを禁じられていた。
芭蕉はその内容を語ることができないが、霊気に触れた感動を胸に秘めてひそかに感涙に袂を濡らしたと句に詠んでいる。湯殿行が夏の季語。

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

私の旅の予定では月山の頂から湯殿山に行くつもりであったが、宿の支配人から道中には残雪があるためアイゼンが必要であり、一人で歩くのは危険であると聞かされていた。その為、月山八合目からバスで鶴岡近くまで一度下山して、バスを乗り換えて湯殿山に行くことにした。バスの運転手さんがそのルートと時刻を詳しく教えてくれた。
庄内平野の青々とした広大な稲田の中をバスは走り再び山道を登って行く。
途中、遠距離通学の中学生、高校生が乗車してくるが、いずれの学生もバスの運転手さんに「ありがとうございました」とお礼を言って下車していく。
都会にはないこうした光景に接して、地方に生活する少年少女たちの態度に清々しさを感じた。最終便のバスは終点の湯殿山の旅館までは行かず途中止まりであったが、ありがたいことに旅館の人がわざわざ車を運転して迎えに来てくれた。
夕食は宿の広間で数人の旅人と一緒に取ったが、隣り合わせの初老の人は横浜在住とのことで話に花が咲いた。写真が趣味で山形、秋田、青森を巡り鳥海山にも登りいい写真が撮れたと話してくれた。
翌日早朝、この横浜のジェントルマンと湯殿山の御神体を拝すため旅館が用意してくれたマイクロバスで行くことになった。
ブナ林をぬって山深く登って行くと湯殿山神社に到着した。通常の神社と違い本殿も拝殿もなく小さな社務所があり神職が一人おられた。

湯殿山の滝と行者 (002)
湯殿山の滝と行者

御神体は巨大な岩と湧き出す湯滝であり,素足になってお祓いを受け、湧水の池で清めることが作法となっているとのことであった。日本古来の自然崇拝そのものであり
自ずから厳粛な気持ちになった。
参拝後神職にお礼を言ってしばらく歩いていると、神職が後から汗をかきながら追いかけてきた。二人とも参拝の際に脱いだ帽子を忘れてきてしまったのである。
神職をはじめ出会った出羽の人々は、まことに誠実で優しいとつくづく感じ入った。

芭蕉は出羽三山を参拝した後、再び最上川を鶴岡から舟で下り酒田に向う。
最上川の河口まで来た芭蕉は眼前に広がる日本海を初めて見た。
時は夕刻、赤く燃えるような太陽が海に沈もうとしている状景に深く感動したのであろう。

暑き日を海に入れたり最上川

海に滔々と流れ込む大河と日本海の水平線に沈もうとしている真っ赤な太陽を捉えた壮観な句柄となっている。
日本画家小野竹喬がこの景観を見事に描いた作品がある。

小野竹喬の絵 (002)
小野竹喬の絵

芭蕉がもし見ることがあれば、さぞかし得心するに違いないと思われる絵画である。

江戸時代、酒田は北海道と京・大阪の中間にあり、北前船が物資を運ぶ最も大きな湊であった。本間家をはじめ廻船業で財をなした富裕な商家が多数あり、俳諧も盛んであった。芭蕉の到来を待ち望んでいた酒田の俳人たちから芭蕉と曽良は温かいもてなしを受け、長旅で疲れた体を癒しながら数度の句会を催している。

この出羽路を自分自身実際に歩いてみて、芭蕉にとって奥の細道の中で最も厳しく、険しい旅であったことが理解できた。
梅雨から盛夏の時節、翁と呼ばれる老齢の者が見知らぬ土地と険しい山道を、杖と草鞋と菅笠のいでたちで歩くことは容易なことではない。
蚤、虱、蚊に悩まされ、蛇、猪、熊などの獣に襲われる危険もあり、まさに命懸けの道行きであったことが想像できる。
芭蕉は一面では風雅を求める俳諧の道を歩きながら、一方では敢えて厳しい自然環境の中に身を置き過酷な長途の旅を続けたのは、修験の道を追い求めていたからではなかろうか。
月山の頂では大自然の広大無辺な様相の中に身を置いて、宇宙と一体となり同化して、無我無執の悟りの境地にまで達したのではないかと思われる。
「造化にしたがひ、造化にかへれ」という芭蕉の教えはこうした実体験から自ずから出てきた言葉と思われる。造化とは神がつくった天地・自然を云う。
芭蕉の後世に遺るような数々の句作には、この修験の旅から修得した精神的に深いものが詠み込まれていると思うに至った。

出羽紀行余話
奥の細道を辿る旅の終わりに、天童にある酒蔵 出羽桜酒造を訪ねた。

出羽桜酒造 (002)
出羽桜酒造

東京農大で社会人向け醸造発酵の講座を受講した折、日本酒造りの講師が出羽桜酒造の仲野益美社長であった。その関係で聴講生及び希望者が一泊泊りで酒蔵を見学することになっていた。現地集合のためこの酒蔵に行くと、大広間に15名ほどの参加者がいて、その中に若い女性が数名いることに驚かされた。最近は若い女性たちが日本酒、特に地酒に興味を持って勉強しているようである。
夏場は仕込みをしないので工場は休業状態であったが、それぞれの工程について詳しく説明を聞くことができた。
大手の酒蔵は年間通して製造しているが、この酒蔵は実直に冬場の寒仕込みを主体にして、独自の麹菌、酵母菌、そして良質な酒米と清澄な水を使って醸造していることがよく分かった。
仲野社長の図らいで、出羽桜の代表的な銘酒と蔵出し前の特別酒が宿泊先のホテルに用意されていた。参加者皆で心行くまで銘酒を賞味し堪能することができ、温かいもてなしと心遣いに感謝するばかりであった。

この酒蔵の敷地には土蔵を改築した美術館があり、その二階に斎藤真一というこの地では名のある画家のアトリエ跡と展示場がある。

斎藤真一の絵 (002)
斎藤真一の絵

昔から酒造家は地方では素封家であり、郷土文化の庇護者でもあった。
斎藤真一はこうした出羽桜の支援を受けて画業に専念できたようである。
瞽女(ごぜ)や遊女を描くことがこの画家の特長で、優れた作品を多々遺している。瞽女とは盲目の女性が三味線を弾きながら唄をうたい物語を語り、時には踊りもして家々を回り少しばかりの布施をもらう旅芸人である。
こうした境遇に恵まれない薄幸な女性たちを優しい眼差しで描いている。
出羽の雪深い一筋の道を夕日の中を三人の瞽女が歩く絵が、今でも印象深く瞼に残っている。

  
                    

掲載日:2020年2月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)






里山に学ぶ自然と環境 (3)

【野村邦男 】

里山の保全活動を通して考える環境問題

近年、地球温暖化による気候変動の激しさが年々拡大し、世界中で大規模な災害が頻発している。

北極圏の氷河・氷床の融解
北極圏の氷河・氷床の融解

海水温と海水面の上昇、氷河と氷床の融解、巨大なハリケーンと竜巻の多発、干ばつによる砂漠化の拡大、熱波による大規模な森林火災の発生、二酸化炭素・窒素酸化物による大気汚染、動植物の生態系の破壊、農作物の不作による食糧難など危機的な状況が続出している。
日本列島でもスーパー台風、集中豪雨、洪水、土砂崩落が多発し、全国いたるところで未曾有の甚大な被害が生じている。四季の巡りが狂い、温帯から亜熱帯に移行したような高温気象が常態化している。
誰もがこれまでに経験したことがないような自然の猛威が次から次と襲って来ていることに強い不安を感じ、更にこれからも想像を超えるような異常気象による深刻な災害が続出することに全ての人々が脅威と危惧を抱いている。

河川の大規模氾濫
河川の大規模氾濫

1997年の京都議定書から2015年のパリ協定に至るまで国連及び気候変動条約締約国会議(COP)を中心に環境保護が叫ばれてきたが、化石燃料による二酸化炭素などの地球温暖化効果ガスの放出量は年々増加するばかりである。産業革命以降、特に1950年代からは世界の平均気温が急激に上昇していて、近い将来2度を越えて上昇すると地球全体の環境が後戻りできない
悪循環に陥るとされている。ましてや4度も上昇してしまうと、地球上の人類を含む生物の生態系が激変する事態になるとの予測もある。今や地球温暖化は現代に生きている人間ばかりでなく将来世代の生存と生活を脅かす非常事態にあると、多くの科学者が警鐘を鳴らしている。

環境保護を訴える若者たちのデモ
環境保護を訴える若者たちのデモ

スエーデンのグレタ・トゥーンベリさんをはじめ世界中の若者たちが地球環境の危機と保護を訴え立ち上がっている。
環境対策と持続可能な社会の構築は、国家とか民族という枠を越えて取組むべき21世紀最大の人類共通の課題となっている。
2015年国連サミットはSUSTAINABLE DEVELOPMENT GOALS(SDGs)を採択し、環境・社会・経済の3つの分野にまたがる17の目標を設定した。気候変動と環境対策、クリーンエネルギーへの転換、安全な水資源の確保、海洋と陸上の生態系の保護、飢餓と貧困の撲滅などの目標を2030年までに達成するよう世界中の諸国に求めている。

一方、日本は国連及び環境保護団体から環境対策の遅れを厳しく指弾されている。
大量に炭酸ガスを放出する化石燃料による発電及び事故による壊滅的な環境破壊を起こす原子力発電に依存した電源を、太陽光、風力、地熱、バイオマスなどの再生可能な自然エネルギーへ早期に転換することを求める世論が大きくなっている
ITとAIによる省エネで効率的な生産・物流・交通システム、ガソリン車から電気自動車へのシフト、リチウムイオン電池の蓄電技術の幅広い活用、水素と酸素を原料としたクリーンエネルギー・燃料電池、植物由来のセルロースナノファイバー、青色発光ダイオード(LED)など革新的な科学技術の普及を促進し低炭素社会に移行することが急がれる。
家庭では省エネ化、食品の廃棄やプラスッチクゴミの削減、リサイクル・リユース等を進め、過剰な人工物に依存した生活スタイルを変えることも必要となっている。

日本の国土は約66%が森林であり、約13%が農地で覆われている。
こうした豊かな緑の自然を保護し活用することにより、環境問題の諸課題の改善を促進したいものである。
日本の自然環境保護のメッセージの一つは里山であり、SATOYAMAが世界の共通語となっている。
環境保護改善の方策として、森林や緑地に生育する植物の生命活動を保全することにより、植物特有の光合成の働きを活性化して、二酸化炭素を吸収しクリーンな酸素を生成増加することができる。
森に入ると誰しも清々しい爽快感を感じる。風のそよぎ、葉のさざめき、小鳥のさえずり、小川のせせらぎなど自然が奏でるゆらぎと音色によって癒される。さまざまな樹木が放散する香気成分が穏やかな気分にしてくれる。
森林浴をするとこれらが相まって人の心身を癒し、健康を増進するセラピー効果があると云われている。

爽やかな竹林の休憩所 (002)
爽やかな竹林の休憩所
夏の暑い日、街中では40度以上もある場合でも、森や竹林の中では10度前後も低いため涼しさを体感することができる。
また、冬の寒い日でも寒風を防ぎ木漏れ日の陽射しで暖かい。
都市部ではコンクリートで造られた高層ビルが林立、アスファルトの道路、溢れる自動車により無味乾燥な景観になっている。一方里山や田園には緑豊かな美しい景観が広がり四季の循環を感じることが出来る。

清々しい自然遊歩道
清々しい自然遊歩道

都心部から近い距離にあるこの里山には多摩自然遊歩道があり、多くの人々がハイキングで訪れ、通勤、通学、散歩の道としても利用されている。
大人も子供も多くの人々が里山の自然に触れて、緑の自然の大切さと環境保護について考える機会にしたいものである。
また、この地域に在住するスペイン人やオーストラリア人がボランティア活動に参加して、私たちと一緒になって緑地保全に汗を流してくれている。

画像の説明
オーストラリアン・ジャパニーズ・スパニッシュ
里山保全活動の協力の輪

国とか人種の垣根を越えて環境保護の大切さを共有しながら、活動の輪が広がるのは嬉しいことである。

里山余話

多摩特別緑地保全地区のボランティア組織「こもれびの会」は緑化推進運動に
功労のあった団体として、図らずも平成28年度国土交通大臣賞を受賞しました。長年にわたる緑地と環境の保全活動が認められたものと思われます。
これからも私たちは身近のところから、微力ではあるが自然環境の保全整備の活動を実践していきたいと考えています。
そして地域の小さな活動を積み重ねて、豊かな自然と環境を将来世代に継承していきたいと思います。                 (了)

掲載日:2019年11月29日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)
 

里山に学ぶ自然と環境 (2)

【野村邦男 】 

里山の多様な生物の命の営みと再生可能な自然資源

コンクリートの建造物とアスファルトの道路で覆われた市街地では植物も動物も生きることが出来ない。近年、都市化の波が自然界の多くの生物を呑み込み消滅させている。一方、緑豊かな里山には今でも多様な生物が生息して、子孫を残す営みが絶えず続けられている。
里山は長い年月をかけて作られたものであり、里人が田畑を耕作すると共に雑木林や竹林を整備してきた。古来稲作を取り入れた日本人は田圃や畑を耕し、稲、麦、大豆、野菜などを栽培して自給自足の生活を送ってきた。
かつてこの里山ではクヌギ、コナラなどを伐採して薪、炭などの燃料にし、スギ、ヒノキなどを家屋の建材とし、カシ、カマツカ、タケなどを農具として活用していた。また、カキ、クリ、モモ、ミカン、ビワなどの果実やフキノトウ、タラノメ、タケノコ、シイタケなどを食材としてきた。
クワの葉は蚕の餌となり紡ぎ出された繭を生糸にし、ミツマタ、コウゾからは和紙を作っていた。落葉を発酵させて野菜栽培の有機肥料として活用していた。
野草のドクダミは別名十薬とも呼ばれ解毒、整腸の薬効があり、ゲンノショウコは下痢止め、健胃薬として利用していた。これらは全て土と太陽と水の恵みであり、年々歳々実りをもたらしてくれる再生可能なありがたい食料であり生活資源である。

戦後のスギ、ヒノキ一辺倒の大規模な植林をしたことにより、半世紀を経て花粉症などの弊害が生じ社会問題となっている。また、孟宗竹は江戸初期に中国から渡来し、400年ほどの間に全国に広がった極めて繁殖力の強い外来種である。
里山は自然のままに放置しておくと、植物間の生存競争により植生が変化し荒れてしまい、偏った植生によって生物の多様性が失われることになる。落葉樹、常緑樹、山野草、竹、笹など多種類の植物がバランスよく生育するためには、

竹林の間伐と整備
竹林の間伐と整備
定期的に植樹、間伐、下草刈りを行い良好な環境を保全することが必要である。
キンラン、ギンランなど絶滅危惧種の植物を保護することも課題となっている。

キンランなど絶滅危惧種の保護
キンランなど絶滅危惧種の保護
植物が元気になると昆虫、小動物、野鳥などの多様な生き物の活動が活発になり、命の循環が保たれるようになる。植物は種子から新しい命が発芽成育し樹木となり草花となる。哺乳類は胎生で母体から子が生まれ乳で育ち、鳥類は卵から雛に、昆虫類は卵から幼虫になり、次世代へと絶え間なく命が引き継がれていく。
私たち人間はこうした多様な生物の生命活動と共存し共生しているということを理解して、多くの種類の動植物が生きることができる環境を保全整備したいものである。

こもれびの会では竹林を間伐した竹を活用して柵、垣根、ベンチ、竹名札などを作り、自家製の炭焼き窯で竹炭にして防菌・消臭材として使用している。

竹・樹木を活用した柵とベンチ
竹・樹木を活用した柵とベンチ

伐採したクヌギ、コナラ、ヤマザクラはイス、テーブル、木道などを作るのに活用している。笹薮を開墾した畑ではジャガイモ、サツマイモ、サトイモ、ナガネギ、タマネギ、ダイコンなどの作物を栽培し、原木に菌を植え付けてシイタケやナメコを育てている。

開墾した野菜畑
開墾した野菜畑

これらの作物は子供たちの体験学習と里山イベントの材料として使用される。
戦後の経済成長と科学技術の進歩により、私たちの生活は快適利便なものへと大きく転換して、自然がもたらす恵みの有り難味が薄れている。
今一度、過剰な人工物に覆われた生活を見直し、こうした循環型で再生可能な里山の暮らしに学ぶことが必要なのではないかと思われる。

里山に学ぶ自然と環境の野外授業

かつて子供たちは身近な山や森の中で遊びながら自然を観察し、いろいろなことを体験することができた。しかし現在はそうした自然環境が失われてしまったため、子供たちが自然に触れる機会が少なくなっている。

里山の野外授業
里山の野外授業
そこで近隣の小学校では里山の野外授業を正式な教科に取り入れ、自然観察と環境保護の学習を行うようにしている。
四季折々の野外授業は多くの児童と教師が参加して行われ、川崎市教育委員会もその意義を認め支援するようになっている。
教室の授業や教科書ではわからないことが、里山の雑木林、竹林、野原に入り実際に五感で自然に触れることにより多くのことを学習することができる。
木の枝にカタツムリやシャクトリムシを見つけ、足元の小さなスミレ、タンポポの花に気付き、ウグイスやシジュウカラの鳴き声に耳を傾ける。
雑木林には実に沢山の種類の樹木と草花が成育し、昆虫、小動物が生息していることを知る。
木の根元の蝉の抜け殻や枯草の中にいるカブトムシの幼虫を見て生き物の命の循環に触れ、クヌギやコナラのドングリそしてアオキやナンテンの赤い実を見て植物が子孫を残す自然の営みを学ぶ。
夏に青葉であったイロハモミジが秋になると紅葉していることを不思議に思い、ツバメやホトトギスが遠い南の国から海を渡ってやって来ることに「なぜ」「どうして」という好奇心を持つ。子供たちが里山の中で自然に触れ五感を働かせながら、感じ考えることが如何に大切であるかがよく分かる。

ツツジなど花木の植樹
ツツジなど花木の植樹

また花木の植樹、草刈、竹細工、落葉かきなどの実習作業も行っている。こうした時の児童たちのいきいきとした目と声、わくわくしたような行動が印象的である。
森に入ると子供たちが本来持っている感性や本能が活性化するようである。
一方、台風が過ぎ去った後、幹周り2mほどのヤマザクラが根こそぎ倒れている様子やクヌギの太い幹が裂けている姿を見て、自然の猛威と恐ろしさを知ることになる。
3月には里山の中で見たり感じたり考えたことを児童たちがグループごとにまとめ、父兄も交えて発表会が行われる。
子供たちには大人とは違った初々しい感性があり、自然及び環境に対する好奇心と探究心が芽生えていることは嬉しいことである。
また近隣の中学、高校の生徒たちも折々ボランティア活動の一環として、下草刈りや竹林の間伐などに参加して里山の保全に協力してくれている。
実際にノコギリや鎌を使い緑地の整備保護に汗を流し、グリーンエコロジーの大切さを理解する場となっている。

2010年春、平和を祈念するクスノキの苗木が長崎市長から送られてきた。
長崎は1945年8月9日、米軍の原子爆弾投下によって7万人を超える人が死亡し、無数の人々が焼けどなどの重症を負い後遺症に苦しんでいる。市街地は焼き尽くされ地獄のような惨状が多くの人々の記憶に深く刻まれている。
爆心地から800mほどの山王神社の境内にあった樹齢600年のクスノキも一瞬のうちに焼け焦げてしまい見るも無残な姿となってしまった。

被爆したクスノキ
被爆したクスノキ

しかしこのクスノキの根は地中で奇跡的に生きながらえて、その根元から生命が芽生え、今では元のような大きな樹木に成長している。長崎市からいただいた苗木は、このように被爆しながらも再生したクスノキから育った苗木である。こもれびの森の日当たりのよい場所に植樹し、平和と生命のシンボルとして大事に育てている。

再生した平和祈念のクスノキ (2)
再生した平和祈念のクスノキ

70cmほどの苗木が今では8mほどの高さに成長し葉を茂らせている。野外授業ではこのクスノキを見ながら戦争と平和について考え、植物の生命力を知る貴重な教材となっている。     

【 つづく】

掲載日:2019年11月27日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)






里山に学ぶ自然と環境 (1)

【 野村邦男 】   '

横浜と川崎は奈良時代から江戸時代まで武蔵の国の一地域であった。
東京湾の海に面し、後背地には多摩丘陵がなだらかに連なる温暖な地帯である。古代よりこの平野と丘陵地域では田圃で稲を作り、畑で野菜や果実を作る農耕生活が営まれてきた。江戸時代になると当時世界最大の100万都市江戸の住民を養うためにこの地域は重要な農産物の生産地となっていた。
明治維新以降、横浜は国際港湾都市に、川崎は京浜工業地帯に急速に発展する。そして戦後の復興と高度成長経済の進展によって、何世代にもわたって営々と継承されてきた耕作地と里山が、住宅地、大規模団地、マンション、工場などに置き換えられ、自然豊かな緑地が次々に失われている状況にある。

私の住まいは川崎北部の多摩丘陵にあり、近くにはよみうりランド遊園地、サッカー場、ゴルフ場そして大学キャンパス、高校、中学、小学校などの文教地区がある。
北には多摩川が流れ、西の方角には富士山、大山、丹沢の山々を望み、東には新宿の高層ビル群、スカイツリー、筑波山が見える。

新宿高層ビル群を遠望
新宿高層ビル群を遠望''''

今ではこの地域に田圃はほとんどなくなってしまったが、野菜畑、果実畑、森、雑木林、竹林、野原のある里山がところどころに残っている。
こうした地域の更なる緑地の消失を防ぐために、川崎市が私有地の買取りを進め、多摩特別緑地保全地区及び多摩美健康の森として保護するようになった。行政の委嘱を受けてこの地域の住民が主体となるボランティア組織「こもれびの会」と「多摩美健康の森の会」が約10ヘクタールの緑地の自然環境の整備保全活動を行っている。

多摩美の森 (002)
多摩美の森

私はこうした活動に10余年ほど前から参加させてもらい、自然環境保護の大切さを学び、四季の豊かな彩りを実感しているところです。
日頃から見たり、感じたり、体験していることを拙文に綴ることにしました。

里山の四季折々の彩りと豊かな恵み

昔の農家の人びとは田んぼや畑を耕作するばかりでなく、住居の周りに落葉樹や常緑樹を植え雑木林や竹林を手入れしてきた。米、麦、野菜などの農作物を作ると共に、薪や炭などの燃料、家屋や家具の木材、鍬、鎌、籠などの農具を自らの手で作り自給自足してきた。
こうした農業と生活に関連した一連のエリアが里山と呼ばれ、現在も全国各地にさまざまな姿で存在している。
里山は人工物で覆われた都心部と違い、四季の移り変わりと季節ごとの景観を五感で感じることができる。多種多様な生き物が生存し、里山の四季の巡りは豊かで変化に富んでいる。

里山の散策路
里山の散策路

 
 早春、ウグイスカグラが小さなピンクの花をつけ、コブシが裸木に
白い花を咲かせる。ツツジが色とりどりの花で里山を飾る。

多摩美広場の春景色
多摩美広場の春景色
雑木林ではクヌギ、コナラ、イヌシデ、エゴノキ、ケヤキなどが芽吹き、若葉を一斉につけるようになる。ヤマザクラが満開となりやがて花吹雪となって散ってゆく。
竹林ではタケノコが地中より頭を出し始め、若竹は瞬く間に背を 伸ばし成長する。スミレ、タンポポ、シュンラン、キンラン、ギンランなどの山野草が色とりどりの花を咲かせる。ウグイスが笹薮で鳴き始めるが、日毎に鳴き方が上手になる。
シジュウカラ、ヤマガラ、メジロ、ホオジロなど小鳥の囀りが盛んになる。
数は減ってはいるが渡り鳥のツバメが飛翔している姿を見かける。 モンシロチョウ、モンキチョウなどさまざまな蝶やミツバチ、クマンバチが盛んに飛び回る。草花や野菜の交配に蝶、蜂、小鳥の働きが欠かせない。
緑の週間には竹林を開放し、近隣の多くの家族が参加して竹林整備のためにタケノコ掘りを行う。

春のタケノコ掘り
春のタケノコ堀り

  
夏になると雑木林の木々には若葉青葉が茂り、真夏でも林間は直射日光が遮られて、涼しく快適である。フジ、アジサイ、ウツギ、ヤマユリなどがそれぞれ美しい花を咲かせる。

神奈川県花のヤマユリ
神奈川県花のヤマユリ  

 一方、クズやアズマネザサなどの夏草が繁茂する。 ホトトギスが毎年夏の初め頃東南アジア方面から渡って来て、甲高い鳴き声で飛び回る。ニイニイゼミが初めに鳴きだし、アブラゼミ、ミンミンゼミと続き、晩夏にはヒグラシ、ツクツクホウシが鳴くようになる。
雑木林全体が蝉時雨に包まれているように感じる。
夏の蝶はクロアゲハ、キアゲハ、アオスジアゲハなど大型で色彩豊かな蝶がゆったりと飛んでいる姿を見かける。子供たちにとって興味津々のカブトムシ、クワガタなどが姿を現す。
カタツムリ、ナメクジ、テントウムシ、トカゲなどの活動が盛んである。
市街地の灯りが入らないこの里山では夏の宵、星の観察会が行われる。

夏の星座の観察会
夏の星座の観察会

天体望遠鏡で天空に浮く土星の輪を見ることができる。夏の大三角形 アルタイル、ベガ、デネブを眺めて、牽牛・織女の七夕神話に浸る気分にもなる。

  
秋になるとクヌギ、コナラなどの樹木からドングリの実が次々と落ちてくる。ムラサキシキブは紫の実、マユミ、ゴンズイ、ナンテンは赤い実をつける。コスモス、ハギ、ノギク、ツユクサが色とりどりの花を咲かせ、キンモクセイが芳香を漂わせる。芒の穂が風に揺れ、カラスウリの赤い実が木にぶら下がる光景に秋の風情を感じる。
木の上ではキツツキの樹皮を突く音が聞こえ、ヒヨドリが鳴きながら
秋空を飛び回る。初秋の頃からコオロギ、スズムシ、マツムシ、カネタタキ、カンタンなどが涼やかに鳴き始め、夜はまさに虫時雨となる。
イチョウ、クヌギ、コナラなどは黄葉し次第に落葉となって舞い始める。

雑木林の黄葉
雑木林の黄葉

秋が深まるとイロハモミジ、トウカエデ、ヤマザクラなどが紅葉し、
多摩美の森の広場では多くの家族が参加する秋の収穫祭が行われる。
畑で収穫したサトイモ、ダイコン、ネギなどの野菜を大鍋に入れ豚汁を楽しむ。

秋の森の収穫祭
秋の収穫祭

  
冬の訪れとともに雑木林は絶え間なく葉が散り、いつの間にか枯木立となってしまう。落葉は太陽の熱と光りが衰える冬場に余分な養分を放出しないための植物の知恵である。

陽ざしの注ぐ冬木立
陽ざしの注ぐ冬木立

落葉した雑木林には冬の陽射しが降り注ぎ、地表では山野草が芽を出し育つことができる環境ができる。
サザンカ、ヤブツバキが艶やかな葉の間に紅色の花をつけ、スイセンが 寒風の中、凛とした姿で白い花を咲かせる。常緑樹のシラカシ、アラカシ、モチノキ、アオキ、ヤツデなどは真冬でも緑の葉を付けている。尾根道近くの高木のモミノキはランドマーク
ツリーのような存在感がある。
モズが木の梢で鋭い声で鳴き、ムクドリ、セキレイなどが餌を求めて草むらを動き回り、笹薮ではコジュケイの親子が連れ立って歩く姿を見かける。
晴れた日には冠雪した富士山が見晴台からくっきりと見ることができる。

冠雪の富士山遠景
冠雪の富士山遠景

12月には近隣の小中高生と父母たちが集い、森のクリスマス会が行われアルプスホーン、カウベル、アコーデオンが演奏される。
食べ物はケーキではなく、サツマイモを炭窯で焼いた焼き芋である。

【 つづく 】

掲載日:2019年11月21日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)






税金を考えてみよう

【 税理士 熊澤輝彦 】

 消費税が8%から10%となり、所得税の扶養控除や年金に対する控除の制度が変わり、相続税の制度が変わり、ふるさと納税が話題になるなど、税金のはなしには事欠かない昨今です。
 私たちは、好むと好まざるにかかわらず、税金を払っています。直接自分で納付する所得税や住民税、給料から差し引かれる源泉所得税、会社を経営していれば法人税や法人市民税・事業税、間接的に支払っている消費税、ビールを飲めば酒税、車を持てば自動車税、ガソリンにも・・。列挙すればきりがないくらいです。
これらは国の税金や県・市町村などの税金などですが、その支払い方の違いによりなんとも多くのものがあります。

「税金」は、人が集団を作れば必ず生じてきます。その集団を維持するための財政のもとになるからです。ただ、過去には長いこと、王侯貴族、お殿様、大名、海賊、山賊場合によっては教会や寺社までが税金という名前でなくても、弱者から力ずくでお金や作物などをめしあげてきました。そして、私腹を肥やしたり、勝手な使い道のために使われてきました。世界にはまだこのようなことが残っている所もあるようですが、少なくとも私たちの国では、税金は法律や条例で決められたものにかかり、その使い道も国会や県・市町村議会で決められます。

 憲法は、国民の義務を決めているものではありませんが、例外として私たちに教育の義務、勤労の義務そして納税の義務を課しています。さらに納税の義務は具体的には「法律の定めるところにより」行われますので、封建諸侯が勝手に決めたのとは違います。
いいかえれば、税を決めるのは、憲法の「国民主権の原理」にもとづいて主権のある納税者側にあるわけですから、原則は国民が選んだ国会・議会が法律・条例などによる決める「租税法律主義」をとり、さらに自分で申告して納付する「申告納税制度」をとっています。また憲法の「平等原則」から、「租税負担公平の原則」と、能力に応じて負担するという「応能負担の原則」をとっています。 つまり、所得に応じて税金を負担することが平等であるという考えをとっています。

 いまや国は税金の不足を補うため国債などを発行し1100兆円を超える借金をしていますが(さらに地方公共団体も別に地方債などで借金をしています)、これを次の世代に遺していかないようにとの声が叫ばれながら財政再建の道は険しい昨今です。
欧米では、消費税(名称が消費税というものでないものもありますが)の税率は軒並み20%前後です。
 所得が多い人にも所得の少ない人にも同じ税率の税金のかかる消費税が増えていけば応能負担の原則は崩れてきます。と言って、借金は減らしたい、社会保障費は増加し続ける。

 消費税率が上がるいまこそ、税金をどうすれば良いのかを考えるのは、納税する私たちです。 
 財務省のホームページから資料の一部(【財政学習教材】日本の「財政」を考えよう)を添付しておきます。ワニの口のように増え続ける国の収入(歳入)と支出(歳出)との不足をあらわしたものとこの原因となる国の借金と国の収入の種類が分かるものですが、参考にしてみてください。



画像の説明


画像の説明


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掲載日:2019年8月21日
記事作成者:熊澤輝彦
掲載責任者:深海なるみ(高15期)

 

 

 


 野菜畑とダーウィン(3)

野村邦男
野菜畑の小さな生き物の大きな働き
野菜づくりの基本は土壌づくりにあると云われている。そのためには畑をよく耕して、有機肥料などの堆肥を入れて土質をよくすることが欠かせない。
土壌微生物(バクテリア、糸状菌、放線菌、藻類など)は昆虫など小動物死骸及び落葉、枯れ草などの植物を分解して有機質豊かな土壌を作る働きをしている。
畑の野菜は無数の土壌微生物が作ってくれた肥沃な土壌から水分と窒素・リン酸・カリなどの有機的な栄養成分を吸収して、地上部で太陽の光を浴びることにより光合成を行い成長することができる。
地中と同じように地上でも小さな生き物が大きな働きをしてくれている。
どんな野菜も必ず花を咲かせるが、花が実をつけるためには雄蘂の花粉から雌蘂への受粉が欠かせない。受粉という交配行為には昆虫など生き物の働きや風の力を借りる必要がある。この媒介の重要な役割を果たしているのがチョウやハチなどであり、花の蜜を求めて飛びまわり、蜜を吸う時に受粉の手助けをしている。
また、テントウムシは小さい体ではるが、アブラムシ、ハダニ、カイガラムシなど野菜を食い荒らす害虫を捕食してくれている。
昔からミミズが沢山いる畑は健康な証であるとよく云われている。
ミミズは細長い円筒形で多数の環節から成る環形動物であり、畑の土の中にもぐっていて四六時中土を食べては吐き出して、土を耕してくれている。
畑仕事をしているとあちこちの土の中から太ったミミズが出てくる。その這いずり回る姿を見ると何となく嬉しくなる。

チャールズ・ダーウィン (002)
チャールズ・ダーウィン

このミミズという小さな生き物について研究していたのがチャールズ・ダーウィンだということを最近知った。ダーウィンはケンブリッジ大学を卒業後、観測船ビーグル号に乗って5年間にわたり中南米、ガラパゴス諸島、オーストラリア、アフリカなどを巡り、さまざまな動植物の生態について調査研究を行った。
この時の調査を基に、生物の自然選択説及び進化論という独創的な学説を考え出した。
生物の遺伝的な形質が世代を経る中で変化して行き、環境変化に適応できる生物種が生き残るという学説であり、一つの種から別の種へと変化して生物が多様化する過程を科学的に証明した。
こうした考察をまとめたものが著作「種の起源 On the Origin
of Species」 (1859年)である。
ダーウィンが提起した進化論は、当時の社会や宗教界に大きな反響を巻き起こし、神の手による天地創造説を覆すことになった。その学説が現代に至るまで生物学の根幹をなし、生物多様性の科学的論拠となっている。
地球上の多様な機能を持った無数の生物が、その連綿と続く命の営みによって人間が生きる糧である穀物、野菜、果物、家畜の肉や乳産品、魚貝類など海産物を生み出してくれている。多様な生物のお蔭で人間は生存できているのだと、ダーウィンは教えてくれている。
この偉大な博物学者であり生物学者が晩年には小さな生き物であるミミズの研究に没頭していたとのことである。
ダーウィンは自宅の広い庭園に野菜畑や花畑をつくり、ミミズを畑で実際に飼育し、さまざまな実験を繰り返しその生態を解明した。ミミズのたゆみない働きによって肥沃な土壌が形成され、植物が成育するためにミミズは欠かすことが出来ない価値ある生き物であると結論づけている。日頃人の目に触れることがない小さな生き物の観察に情熱を傾けたダーウィンの最後の著作が「ミミズと土」であった。これまで縁遠かったダーウィンに親しみを覚えるようになった。

野菜畑が訴える環境問題
野菜畑の中を動き回るチョウ、ハチ、ミミズ、小鳥などの姿を見ていると、レイチエル・カーソンのことを思い出す。

レイチェル・カーソン
レイチェル・カーソン

20世紀を代表するアメリカの女性生物学者で、その著書「沈黙の春 Silent Spring」(1962年)は特に有名である。
「沈黙の春」はコペルニクス、ニュートン、ダーウィンなど歴史を変えた著作27冊の中の一冊であると歴史学者が述べるほど、現代社会に影響を与えた
書物である。
20世紀中頃のアメリカの農場では農作物の収穫を上げるために大量の農薬と化学薬品が使用され、空中散布も行われていた。緑豊かな田園地帯にはいつの間にか蝶も蜂も姿を消し小鳥たちの鳴き声も聞こえなくなり、やがて多くの住民が病気になるという深刻な事態が生じていた。
カーソンは詳細な科学データに基づき農薬及び化学薬品の使用が、農地、牧草地、森林、河川、海洋などに深刻な汚染を引き起こし、人間の疾病ばかりでなく動植物の生態系に重大な影響を及ぼしていることを実証し問題を提起した。
「沈黙の春」の告発が嚆矢となり、環境破壊による健康被害や生物多様性の喪失が大きな社会問題として認識されるようになった。
この問題をいち早く理解した当時の大統領ジョン・F・ケネディは直ちに環境保護庁を設置して本格的に環境問題に取り組むことを始めた。

ジョン・F・ケネディ (002)
ジョン・F・ケネディ

やがてカーソンの問題提起が世界の諸国を巻き込んだ国連人間環境会議を呼び起こし、後年国連環境開発会議・地球サミットとなり、現在では気候変動枠組条約、生物多様性条約という世界規模の温暖化対策と環境保護の運動に引き継がれている。
残念ながらカーソンの警告にも関わらず僅か半世紀ほど経った現在、地球全体の環境は過度な二酸化炭素の排出や急激な自然破壊などによって加速度的に大きく狂い出している。地球温暖化による気温と海水温の上昇に伴うスーパー台風、巨大竜巻、集中豪雨、洪水などの異常気象の多発、二酸化炭素・二酸化硫黄・窒素酸化物による大気汚染、プラスチックごみによる海洋汚染、熱波による森林火災の頻発、干ばつ、砂漠化の広がりによる水資源の枯渇と農耕地の減少、氷河、氷土の溶解による海水面の上昇等々、危機的な深刻な状況が世界を覆っている。
                                 福島原発事故

福島原発事故

日本では2011年3月の福島原子力発電所の爆発事故によって、史上最大の深刻で悲惨な環境破壊が現実のものとなってしまった。
原子炉のメルトダウンにより放出されたセシュウム、ウラン、プルトニュウムなど放射線物質は自然豊かな田畑、森林、河川、海洋を瞬く間に汚染してしまった。遠い祖先から何世代にもわたり耕作してきた人々は田畑や牧畜の土地を失い、漁業に精励してきた人々は漁場を失っている。汚染された土地には人が住むことができないために、今でも数万人という多くの人々が愛する故郷を離れて避難生活を続けている。これほど残酷な自然破壊と生活破壊は無く、この地域の人々にとってどんなに辛く悲しいことか筆舌に尽くせないものがある。
このような悲惨な原発事故は福島だけではなく、地震と津波の多発する日本
列島のどこの地域でも起こる可能性があることが危惧されている。

地球誕生以来の何億年もかけて出来ている自然循環の仕組みが人間の所業によって崩壊し、800万種と推測されている生物の生態系が壊され、100万種もの生物が絶滅する危険に晒されている。世界人口75億人の生活を支え、さまざまな欲望を満たすために生物の一種に過ぎない人類が地球環境を破壊し続けることはもはや許容できない状況にある。
                              原発事故の除染廃棄物

原発事故の除染廃棄物

世界中の国々が国家、政治、経済、産業などの利害を超えて環境保全に取り組み、早急に対策を実行することが求められている。
原子力発電及び石化燃料による火力発電から、太陽光、太陽熱、風力、地熱などの再生可能エネルギーへの転換、ガソリン自動車から電気自動車へのシフト、大規模な森林伐採を中止し計画的な植樹による森林再生などが急がれる。
私たち一人ひとりも環境保全のために自分たちのライフスタイルを見直し、生活全般の省エネ化、日常品のリサイクル・リユース、プラスチックや食品ロスの削減などを実践することが必要となっている。

私が耕作する小さな畑には世界のさまざまな地域からやって来た野菜たちが年々歳々命をつなぎ、四季の移り変わりに応じてそれぞれ花を咲かせ、実をつけている。地上の昆虫、野鳥、小動物、地中のミミズや土壌微生物など無数の生き物が野菜の生育にとって大事な働きをしている。そして汚染のない土壌と水と大気そして太陽という自然の恵みがいかに大切であるかを教えてくれている。私たち人間はこうした多種多様な生物と共生していること、そして人智を超えた自然の循環の中で生きているということを、野菜畑から学びながら農作業をしています。
                                 【了】

掲載日:平成31年7月20日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高校15期)





 野菜畑とダーウィン(2)

野村邦男

野菜畑の花々は国際色豊かで個性的
植物は全て種子から芽が出て花を咲かせ実をつける、その実から新しい種子が
地上にこぼれ子孫を残すという循環を年々歳々続けている。
野菜は家畜と同じように古来より人間が都合のよいように改良して、日常食として欠かすことが出来ない主要な食料としてきた。もともと山野草であった
ものを長い年月をかけて食べ物として適したものを選り分け、何世代にもわたる品種改良を行い現在の野菜となっている。
畑で農作業をしているとどんな野菜も必ず花をつけることが分かる。
トマト、キュウリ、ナスなど果采類は花が咲いた後に実が成る。ジャガイモやサツマイモなどの根菜類は地上では花が咲き地中では茎や根が肥大化して
食べ物となる。ホウレンソウやコマツナのような葉采類は花が咲く前の葉を
収穫して食べる。
野菜畑の花は園芸用につくられた花と違い、それぞれが個性的で野趣に富んでいる。東アジア、中央アジア、中東、地中海沿岸、中南米、北米、アフリカ
など原産地が多岐にわたるので、人間と同じように姿、形、色合いもさまざまで国際色が豊かである。

ジャガイモの花

☆ ジャガイモの花はよほど関心がないと見ることがないが、
よく見ると綺麗な白、ピンク、薄紫の花が咲く。
ジャガイモのルーツはトマトと同じように南米アンデス高地であり、インカ
文明を支えた作物であったが、スペイン人が16世紀に大西洋を渡り持ち帰った。
ジャガイモは熱帯から寒冷地まで栽培可能地域が広いので、ヨーロッパでの穀物の不作と戦乱による食糧不足を救うために栽培地が急速に拡大し、飢饉にも役に立ったと伝えられている。当時のヨーロッパ人とってジャガイモは重要な作物であったためか、

マリー・アントワネット
マリー・アントワネット
フランス革命期の王妃マリー・アントワネットが舞踏会の折にジャガイモの花を髪飾りとして付けていたことが逸話として残っている。ベルサイユのバラではなくジャガイモの花が髪飾りに選ばれたとはいかにも面白いエスプリの効いた話である。
日本ではジャガイモの品種にはどういう訳かダンシャクやメークインなど洒落た名前がついている。ダンシャクは、明治期に川田龍吉男爵がイギリスから北海道に導入した品種に由来している。メークインは5月に美しい紫色の花が咲くことから
五月の女王と名づけられたようである。

エンドウの花

☆エンドウは蔓を伸ばして小さな蝶の形をした白、紅、紫色の花をつける。
類縁のスイートピーはエンドウを観賞用に改良した園芸種である。
エンドウマメは古代エジプトにもあった歴史の古い野菜であるが、現在の日本ではキヌサヤ、スナップエンドウ、グリンピースなどが好まれている。
畑に咲くエンドウの小さな花を見ていると、高校の生物の授業で学んだ
メンデルの法則を思い出す。

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グレゴール・メンデル

19世紀中頃オーストリアの修道院の司祭であり植物学者であったグレゴール・メンデルはエンドウマメの交配実験を重ね、遺伝現象の法則性と遺伝物質の存在を発見した。優性の法則、分離の法則、独立の法則という三つの法則によって親・子・孫へと遺伝形質が代々伝達される仕組みを解明した。
現代の遺伝子、DNA、染色体、遺伝子工学、遺伝子治療からIPS細胞の
研究に至るまで遺伝学と応用技術の発展は、
メンデルのエンドウに関する地道な研究から始まったと言うことができる。
あらためて、畑の中で蔓の先に咲く可愛らしいエンドウの花を感心しながら
眺めている。

トウモロコシの花

☆ トウモロコシはメキシコからアンデス高原に至る地域が栽培のルーツと
され、大航時代にヨーロッパに広がり、現在ではムギ、コメと並ぶ三大穀物として世界中で栽培されている。
畑で育つトウモロコシを見ていると花はいったいどこにあるのだろうかと不思議に思う。調べてみると雌雄同株で茎の先端にススキの穂のように伸びているのが雄花、茎の腋の包葉の先にヒゲように垂れているのが雌花の雌シベであると分った。トウモロコシは花の形状が特殊なので昆虫の手助けがなく、風が花粉を運び受粉する仕掛けになっている。雌花のヒゲの一本一本が子実につながっていて、受粉によって皮の中で一粒ずつのコーンに形成される。ヒゲの数と粒の数は同じだけ作られることになる。沢山のトウモロコシの花がススキの穂のように風に揺られている状景は夏の風物詩とも云えるが、花として見ると特異な野菜である。

メイフラワー号2
メイフラワー号

1620年英国ピューリタンの人々が自由を求めメイフラワー号で新大陸を
目指しアメリカに渡る。厳冬の厳しい環境の中で食料がないために飢えに苦しんでいた時、ネイティブアメリカンからトウモロコシの種を貰い、栽培方法を教えてもらった。そのお蔭で食糧を安定して収穫することができるようになり、入植活動を継続し開拓地を広げることができた。このことがサンクスギビングデー(感謝祭)の起源とされ、合衆国建国の最初の基が造られたとも言われて
いる。トウモロコシはまさに世界史に刻まれるような作物でもある。

オクラの花

☆オクラの花はクリーム色のちりめんのような花びらと赤い花芯の取り合せ
が美しく、背丈も2mほどにもなるので夏の畑に彩りを添える。
北東アフリカの熱帯地域が原産で、はるばると長旅を重ねて幕末にアメリカ
から渡来した珍しい野菜である。アオイ科のハイビスカス、タチアオイ、
ムクゲなどと同類で、南国風の野趣が感じられる。
オクラという名前もアフリカの現地語であり、アフリカ系の野菜が日本の
多雨多湿な風土に馴染んで頑張っていることに感心する。
オクラはムチンという物質によってヌメリがあり、食物繊維、ビタミン、
ミネラルも豊富で夏バテに効果がある優れものである。

ナスの花

☆ナスの花は淡い紫色で美しく素朴な野趣があり、実も艶やかな紫紺色で
綺麗な姿をしている。インド原産でシルクロードを運ばれ、奈良時代に中国から渡来した。千三百年以上前から日本人に好まれているロングセラーの野菜である。昔から一富士、二鷹、三茄子(なすび)と云われるほど野菜としては
破格の扱いである。全国至るところで栽培され、加茂ナス、仙台長ナスなど地方風土に適応した数多の品種がある。ナスは漬物、揚げ物、焼き物、炒め物、煮物、汁物など料理の種類が多いことも人気が高い理由と思われる。
薄紫色のナスの花を畑から持ち帰り、竹の一輪挿しに活けて野趣を楽しむのもいいものである。

ネギの花

☆ネギの花は茎の先端に白緑色の小花が球形にびっしりと付く。この花の形が僧侶の頭に似ていることから葱坊主とも呼ばれる。葱坊主は種を採るために畑に残しておくもので、その姿や形はユーモラスな感じがするが、小花の一つ一つにはぎっしりと種子が詰まっている。葱坊主は花の期間が長いので長命、豊年満作に通じるとして昔から縁起が良いものとされてきた。そのために神輿の飾りや擬宝珠として橋の欄干などに取り入れられてきた由縁である。ネギの原産地は中国で奈良時代に渡来して全国で栽培されるようになった。
関東は白ネギ(根深ネギ))、関西は葉ネギ(九条ネギ)が栽培されることが多く、日本人にとって馴染みの深い野菜である.

菜の花畑

☆菜の花(ナバナ)は古代より全国いたるところで栽培され、春になると黄色一面に彩られる菜の花畑は日本の原風景である。与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句には、日本人の誰もが共有する叙情的な状景が詠まれている。
菜の花は食用としてはナバナ、食油としてはナタネ油として日常生活に欠かせないものである。菜の花の種子を搾って作られるナタネ油は食用油の6割を占めるほどで、てんぷら、揚げ物、ドレッシングなどに幅広く使われている。

全国地域ごとに特有のナバナがあるが、多摩地域ではノラボウという品種が開発され、畑で栽培している。お浸しにして食べると春の息吹のような食感を味わうことができる。
畑から花を切って家に持ち帰り、花瓶に一束飾ると部屋がいかにも春の明るさに満されるような感じがする。                          【つづく】

掲載日:平成31年7月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)





 野菜畑とダーウィン(1)

                                 【野村邦男】

多摩丘陵は高尾山麓から八王子、町田、川崎、横浜にかけてなだらかな起伏を繰り返し連なっている。
私が住まいしている川崎市北部は多摩丘陵の東端にあり、近くには多摩川が流れ、里山には雑木林、竹林、畑が所々に残る自然豊かなエリアである。
会社生活をリタイアした後は野菜栽培と里山保全の活動をしたいとかねてより思っていた。そうした折に、江戸時代から続く農家が近隣の人びとに農地を解放し体験農園を始めることになり、早速参加させてもらうことにした。
農園の主である純朴篤実な好々爺から、野菜づくりについて親身になって
手取り足取り教えていただいた。鍬の使い方、種まき、苗植え、育て方、収穫など栽培方法を伝授してもらい、落葉や野菜クズを利用した有機堆肥作り、藁縄、藁塚、沢庵や白菜の樽漬けの方法まで教わった。
現在は体験農園を卒業して、地元の農協の斡旋で農家からよみうりランド遊園地の近くの畑を借りて野菜づくりをしている。

多摩丘陵の里山
多摩丘陵の里山

自宅から徒歩で行くことができる40㎡ほどの小さな畑であるが、無農薬の野菜づくりはけっこう手間と時間と根気が要るので、一人で栽培する農作業に適度な面積である。
自らの手で種を播き、苗を植えた野菜が育つ様子を見るのは楽しいものであり、
収穫したばかりの野菜をその日のうちに食べると新鮮で格別な味わいがある。無農薬なので幼い子供たちはスーパーの野菜と味の違いがわかるのか喜んで食べてくれる。
野菜づくりを通して実際に体験したこと、見聞したこと、学んだことを、興味の赴くままに拙い文章を綴ることにしました。

野菜は国境も領海もない国際派
畑で農作業をしていると、野菜の生まれ故郷は世界中にあることに気がつく。
多摩の小さな畑に東アジア、中央アジア、中東、ヨーロッパ、中南米、北米、アフリカなどが原産の多様な野菜たちが共存していることに感嘆する。
植物は動物と違い自らは移動することができないので、人間の移動に伴い
野菜の種子が運ばれて世界中に広まっていったものと考えられる。
人間はお互いに国境だとか領海だと主張し合っているが、野菜はそんなことは
関係なく生命の種子を広げ、それぞれの地域に根付くことができるタフな
国際派であることがよくわかる。
現在日本で栽培されているほとんどの野菜は世界のいろいろな地域から
渡来したものである。畑の中で育つ野菜を見ながら、遠く離れた原産地から
はるばる日本列島にどのようにして渡って来たのか調べていると、想像の翼が広がり興味が尽きことがない。

野菜の種子が遠くまで移動するルートとして陸路と海路があると考えられる。
陸路の主たる道は古代から続く東西交易の道 シルクロードである。
シルクロードは唐の都長安から中央アジア、中東、地中海沿岸を経て古代
ローマに至る長い道である。天山南路と天山北路など幾つかの道筋があり、
標高5千メートルのパミール高原やゴビ砂漠、タクラマカン砂漠を越えて      
駱駝の隊商が多くの物資を運んだ。

シルクロードを行く隊商
シルクロードを行く隊商

このシルクロードの長い旅路を辿り、地中海、ペルシャ、中央アジア、インドなどの原産地から中国、朝鮮半島を経て日本に渡来した多くの野菜がある。
代表的な野菜には、ナス、キュウリ、タマネギ、ダイコン、カブ、ニンジン、ホウレンソウ、シュンギク、レタス、エンドウマメ、ソラマメなどがある。
また、中国が原産であるハクサイ、ネギ、ゴボウ、レンコン、ラッキョなどは遣隋使や遣唐使が持ち帰り日本に根付いた野菜である。

クリストファー・コロンブス (002)

海路はクリフトファー・コロンブスが新大陸アメリカを発見したことに始まる。
コロンブスはスペイン女王イザベル1世に幾度も大西洋を渡り新天地に行く
ための支援と許可を請願している。ようやく女王の支援を得て、マルコポーロの東方見聞録に記された黄金の国ジパングと胡椒産出のインドを目指して
サンタマリア号に乗り大西洋に船出した。
1492年厳しい航海の末に中米のサン・サルバドル島に到達する。そこはジパングでもインドでもなかったが、結果としてアメリカ大陸を発見したことは世界史上画期的な大発見となった。それ以降、帆船が大西洋、太平洋、インド洋を往来する大航海時代の幕開けとなった。スペイン、ポルトガルなどヨーロッパ諸国が中南米の各地域へ航海を重ね、多くの資源や産物を母国に持ち帰った。

サンタマリア号

当時帆船で運ばれた野菜としてはジャガイモ、トマト、トウモロコシ、カボチャ、サツマイモ、キャベツ、ブロッコリー、ピーマン、オクラ、アスパラガス、トウガラシなどがあるこれらの種子が世界中に広がり各地域で栽培され、人間にとって飢えからの救いとなる食べ物であり、安定した食生活が出来るための重要な食物となった。
日本には戦国期や江戸期にヨーロッパから南蛮船によって海路もたらされた野菜が多い。
ちなみに、縄文時代から日本に自生していた野菜はジネンジョ、ウド、フキ、ワサビ、アシタバ、セリ、サトイモなど限られたものである。現在日本人が日常食べているイネ、ムギ、ダイズなどの穀類をはじめ野菜の大部分は海外から渡って来たものである。

世界を旅する野菜のロマンに満ちた歴史と物語
今回はトマト、カボチャ、タマネギ、レタスに絞ってその旅路を辿ってみる
ことにする。

☆トマトはペルー、エクアドル、ボリビアにまたがるアンデス高地が原産地
で古くからインカの人々が食用としていた。

インカ文明・マチュピチュ遺跡
インカ文明・マチュピチュ遺跡
この地を征服したスペイン人が母国に持ち帰ったが、当初は赤い色と青臭い食味が嫌われ観賞用植物の扱いであった。19世紀になってから品種改良が行われ、イタリアをはじめ
南ヨーロッパで盛んに栽培されるようになった。現在では全世界に広がり
8000種もの品種があり、サラダとして生食するものからトマトソース・
ケチャップを使ったパスタ、スープ、シチューなどの料理に欠かせない最も
ポピュラーな野菜となっている。
日本には江戸中期に渡来したが、食用として本格的に栽培されるのは昭和に
入ってからであり、食の洋風化に伴う新しい感覚の野菜である。
スペイン人に征服されたアンデス高地のトマトが、洋食には欠かせない重要な食材となっていることに歴史のアイロニーを感じる。そして、トマトが何億人という多くの人々に毎日愛食され世界の食文化に大きな役割を果たしていることに、トマトの健闘を称えたい気持ちになる。
☆ カボチャのルーツはメキシコである。カボチャの旅路は遠大で世界中を渡り
歩いている。カボチャはコロンブスの新大陸発見によってヨーロッパに渡り
中国、カンボジアを経由して16世紀頃日本に到来した。名前はカンボジアに
由来し漢字では南瓜と書き、日本カボチャとも呼ばれている。
西洋カボチャはメキシコから南アメリカに渡りそこで改良され、日本には
明治期に渡来してから本格的な栽培が始まり現在では主流となっている。
カボチャはゴツゴツとして武骨な容貌であるが、世界中の人々から愛されて
いる野菜である。

ハロウィンのカボチャ

欧米の万聖節(11月1日)の前夜祭ハロウィーンは秋の
収穫を祝い悪霊を追い出す祭りで、カボチャがまさに主役である。
最近、日本でもどういう訳かハロウィーンが子供から大人まで参加する一大イベントとなり、カボチャをくり抜いた人形を作り、仮面をかむり衣装を着て練り歩く祭になっている。

☆ タマネギのルーツは中央アジアである。シルクロードをラクダの背中に
乗せられ中近東や地中海沿岸地域に運ばれた。

ギーザのピラミッド
ギーザのピラミッド

古代エジプトではピラミッドの建設労働者の貴重な食べ物であり、スタミナ源でもあったと記述されている。
その後ヨーロッパ全域に広がり、16世紀にアメリカ大陸に渡り、日本へは
江戸時代に南蛮船で渡来し、明治期以降洋食の普及に伴い需要が増大した。
タマネギは一見根菜のように見えるが、食べるのは根ではなく葉鞘(ようしょう)と呼ばれる葉の部分で、地中で玉状に丸く大きくなったものである。
現在ではタマネギはスープ、カレー、シチュー、ハンバーグ、サラダなど
日常欠かせない食材となっている。

☆ レタスの祖先は地中海沿岸とされている。レタスは現代的な洋風野菜の
代表のよう見えるが、意外に栽培は古く紀元前4500年前のエジプトの墳墓壁画に描かれていて、ローマ帝国では主要な野菜のひとつであった。東洋にはペルシャを経由、シルクロードの長い旅をして中国まで運ばれ、日本には奈良時代に渡来した。

シルクロードの終着地正倉院
''シルクロードの終着地・正倉院
''
東大寺正倉院の古文書に「ちさ」と記されているほど歴史の古い野菜である。昔から結球しないカキチシャが煮物などに使われていたが、幕末にアメリカから伝えられた玉レタスが今日では主流となっている。
レタスはサラダのイメージが強いが、油炒め、煮物、スープなど加熱調理してもビタミン、カロテン、カルシウム、植物繊維などが摂取できるので健康増進
効果があると評価され、和洋中の料理に広く使用される野菜となっている。
                                  【つづく】

掲載日:平成31年7月14日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)






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 港ヨコハマ 私の風土記 (4)

野村邦男
野毛山とみなとみらい
紅葉坂を登って行くと野毛山に至る。この一体は緑豊かな木立の中に伊勢山
皇大神宮、不動院、音楽堂、能楽堂、図書館などがあり、文化の雰囲気が
漂っている。また、丘の上に広がる動物園には親子連れが訪れ、野毛山公園
からは港の景観が一望できる。
かつてこの地は、ペリーの黒船来航以来、幕府の神奈川奉行所が置かれ
条約交渉にあたる多くの役人が仕事と生活をしていた場所である。
その一角にある掃部山公園に井伊直弼の銅像が建てられている。

1  掃部山公園iinao6
掃部山公園・井伊直弼の銅像
港ヨコハマの歴史を遡ると、徳川幕府大老として開国を進めた井伊直弼の
働きを欠かすことができない。
井伊直弼は日本という国が幕藩体制から明治維新に大転換する時代の渦の
真ん中にいた有為転変の人物である。
近江彦根藩の十三代藩主井伊直中の十四男として生まれた庶子である。
17歳から32歳まで貧しい300俵の部屋住みの生活を送った。
この間に国学、兵学、居合術から茶道、和歌、能楽、禅に至るまで幅広い
文武両道の素養を身につけている。
その聡明さから巡り巡って第十五代藩主となる。その後幕府の老中、大老と
いう幕政の重職を担うことになり、開国と攘夷の激しい対立抗争の舵取りを
することになった。1858年(安政5年)直弼は開国論に立ち、
アメリカ及びヨーロッパ諸国との修好通商条約に調印した。
朝廷の勅許なしの条約調印に対する批判と尊皇攘夷運動が渦巻く中で、
安政の大獄と云われる処置を強行した。桜田門外の変で直弼は水戸脱藩浪士
たちに斬殺され、幾多の曲折を経て幕藩体制は崩壊し、明治新政府の時代を
迎えることになる。
直弼についてはさまざまな毀誉褒貶はあるが、200年以上続いた鎖国という
世界から閉ざされた体制を開国し、横浜、神戸、長崎、函館、新潟の5港を
開港した歴史上の意義は大変大きい。
井伊直弼の決断と実行によって、長い鎖国から世界に門戸を開き近代国家に
転換する契機となった。そして横浜が国際港湾都市として発展して、日本の
経済、社会そして人々の生活向上に貢献していることは間違いない事実である。
野毛の小高い丘の上に建つ井伊直弼像は、真向かいに広がる港の全景を
どのような思いで眺めているのであろうか。

JR根岸線の高架が通っている海側のエリアがみなとみらい21である。
かつて桜木町から乗る京浜東北線や東急東横線の車窓から延々と広がる
三菱重工横浜造船所が見えた。巨大な数多くのクレーンが動いている
光景が印象に残っている。
1980年代に造船所や国鉄操車場跡を再開発して、ウォーターフロント都市計画に基づき約30年をかけて整備建設された街である。

みなとみらい21の夕景 (002)
みなとみらい21の夕景

186haの広大な敷地には横浜ランドマークタワー、日産グローバル本社、
パシフィコ横浜などの高層ビルが林立し、赤レンガ倉庫群、大観覧車などの
観光施設もある。
みなとみらい地区にはイルミネーションに輝くホテルやレストランが多数あり、
国内外から多くの人々が訪れる華やかなエリアである。
一方、JRの高架を挟んだ野毛地区にはまったく違った街の様相がある。

野毛の呑み屋街

野毛の呑み屋街 (002)

野毛には600軒の店屋があると云われていて、その多くが飲食店である。
立ち呑屋、居酒屋、焼鳥屋、おでん屋、焼肉屋、ラーメン屋など庶民的な飲食店が多く、
軒を並べる店からはいろいろな食べ物の匂いが漂っている。
夕方には仕事を終えたサラリーマンや作業員で賑わい、店によっては路上に出された
小さなテーブルとイスで一杯やっている人たちもいる。
古くから人気のジャズ喫茶「ちぐさ」には馴染みのミュージシャンや愛好家が今でも
通っているようである。
学生時代、早大横浜会の友人たちと「養老の滝」という居酒屋で時折コンパをしたことが思い出される。安酒を飲みながら語り合った仲間たちと50年余りが経った現在も親交が続いている。
戦後の闇市からスタートした野毛は、今もなお雑然、混然としたエネルギーの溢れた町として庶民を引き寄せている。

移民船の別れのテープ
1950年代から60年代にかけて、大桟橋から移民船が船出する光景を
しばしば見た。船の銅鑼の音が鳴り響き、無数の紙テープを移民する人々と
見送る人々が手にして、船からも大桟橋からも大きな声が一斉に上がり、
多くの人達が涙していた。移民船が赤灯台を過ぎて船体が見えなくなるまで
見送る人達の姿と光景が瞼に残っている。

3移民船の出港風景 (002)
移民船の出港風景

かつての日本は移民政策を積極的に進めた国家であった。
明治初年1868年(明治元年)最初の移民150人がハワイに向って船出し、その後3万人ほどが移住している。その後、メキシコへの移民をはじめ
アメリカ、カナダなどへの移民政策が積極的に進められた。
1923年、合衆国は日本人の移民が急増したことにより反日世論が高まり
移民入国を禁止した。これを契機にブラジルやペルーなど南米への移民が
本格化した。
一方アジア地域では1895年台湾の日本領土化、1910年朝鮮併合、
1914年ミクロネシア委任統治領化など植民地化政策の拡大により
何十万人もの人々が移民、移住した。
更に、1932年(昭和7年)満州国建設に伴い国家政策として500万人
という無謀にして途方もない移住計画が立てられた。
その実行部隊として満蒙開拓団が結成され東北、中部地方の農民約32万人が半ば強引に移住させられた。
またフィリピンをはじめ東南アジアの諸地域にも殖民として送りこまれた。
こうした国家政策のもとに移民、移住した多くの人々は厳しい環境の中
苦難の生活を送り、異国の地に家族が離散し、命を落とす惨劇が数多生じた。
特に、満州に移住した多くの人々が戦争に巻き込まれ悲惨な犠牲者となり、
家族と離別した中国残留孤児という悲しい惨禍が現在まで続いている。
中にはブラジルやアメリカなどで苦難を克服し、農場や牧場の経営に成功し、その地で日系人として二世三世と事業を継承しながら活躍している人々もいる。
また移民を受け入れた地域や社会の発展のために貢献している事例もある。
戦前、戦中は日本からの移民は完全にストップしていたが、1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約の締結により、海外への定住農業移民が
再び開始されることになった。以後、ブラジル、アルゼンチン、ドミニカ、
ボリビアなど南米への移民が増大した。
大桟橋からしばしば見た光景は、移民船ぶらじる丸やあるぜんちな丸で移民
する人々の送別の情景であった。
時は移り、最近はブラジルをはじめ南米諸国、東南アジアから多くの人々が
日本に仕事を求め移住してきている。

世界の近現代史は移民、難民問題を抜きにしては語ることが出来ない。
古今東西、世界のほとんどの紛争と戦争は領土、民族、宗教そして移民・難民による問題から引き起こされている。
スペイン、ポルトガルによる中南米の殖民地化と支配、イギリス、フランス、ドイツなどによるアジア、中東、アフリカ諸地域の植民地支配と入植移民、
ヨーロッパ諸国からの新大陸アメリカとカナダへの大量移民、そしてアフリ
からアメリカ合衆国への強制的奴隷移民などが行われてきた歴史がある。
こうした移民が多くの犠牲と紛争を生み出したことも事実であるが、
一方欧米諸国の多様性のある社会と文化をつくってきたことも事実である。

しかし、最近はアメリカ合衆とヨーロッパ諸国において移民・難民受入れ
制限や禁止の動きが顕著となり深刻な問題となっている。
こうした事態は対岸の出来事ではなく、日本の戦前、戦後の移民政策を
振り返り、今後海外から受け入れる移民、移住について真摯に考察する
ことは日本人にとって大きな課題であると思われる。

氷川丸の戦争と平和

⑤山下公園の氷川丸 (002)
山下公園の氷川丸

山下公園の岸壁に氷川丸が繋留されている。岸壁を繋ぐロープにはいつも
数羽の白い鷗が止まり、多くの人々が見学に訪れている。
赤灯台が見える穏やかな海辺に浮くスマートな船体は港のシンボルである。
しかし、氷川丸は戦争と平和の生き証人とも言える存在である。

この船は1930年、北米シアトル航路の貨客船として横浜船渠で建造され
就航した。オーシャンライナーという船型、アール・デコ様式の船内
インテリア、一流シェフによる料理など当時としては最先端をいく船であった。
戦前は多くの人々を運び、中にはチャールズ・チャプリンや宝塚歌劇団などが乗船して日米を繋ぐ文化的な役割を果たしていた。
しかしながら、日米開戦を間近にして交換船として在米・在加の日本人の帰国、在日アメリカ人・カナダ人を本国に送るため太平洋を往復している。

2病院船時代の氷川丸 (002)
病院船時代の氷川丸

戦争中は日本海軍に病院船として徴用され、船体は白色、緑色の帯を引き
赤い赤十字のマークが付けられた。
傷病兵を輸送する中、インドネシア・スラバヤ、カロリン諸島、シンガポールなど危険な海域を航行し、魚雷による攻撃、機雷の爆発によって被害を
受けたが、沈没を免れたことはまことに奇跡的であった。
終戦後、暫らく外地からの引き揚げ者の輸送の任務を担い、シアトル航路への復帰を果たした。平和の時代となり、多くのフルブライト交換留学生などを
乗せてアメリカへと向う文化的交流の役割も担った。
1960年、太平洋横断239回目の最終航海を終え、この間25000人
もの人を運んだと記録されている。

太平洋戦争の顛末として、ミッドウエイ海戦、ガダルカナル海戦、戦艦大和・武蔵の沈没などについて語られることが多いが、民間の貨物船、客船の膨大な船舶が犠牲となり沈没している史実が語られることは少ない。
戦前の日本の商船隊は世界第三位の陣容であったが、この戦争によって
失われた船の総数は2600隻、840万総トンにのぼり、壊滅的な被害を
受けた。本来客船、貨物船として運航されていた多くの商船が海軍によって
強制的に徴用され、軍艦あるいは輸送船として用いられた。
無防備の船はなすすべもなく爆弾や魚雷によって撃沈され海の藻屑となって
消えてしまった。戦争の悲惨さ、多数の船舶の消滅ばかりでなくおびただしい数の民間人である船員が命を落としているところにもある。

氷川丸はこのような凄まじい戦禍の中を生き残った数少ない外航船である。
解体される予定もあったが、この船を保存したいという多くの人々の強い要望によって大規模な補修が行われ、港のシンボルとして山下公園に繋留されることになった。
現在は国の重要文化財に指定され、日本郵船が管理する博物館船氷川丸として一般に公開され平和な余生を送っている。
この氷川丸を眺めるたびに、この船が辿った戦争と平和について考えさせられることが多い。
平穏な青い海、空飛ぶカモメ、大桟橋に接岸している外航船、湾内を走るクルーザー、コンテナヤードのガントリークレーン、湾岸地域を結ぶベイブリッジ、臨海部の工場群を見渡し、そして穏やかに静かに船体を浮かべる氷川丸を見ていると平和の大切さが一層感じられる。   
                                  【

掲載日:平成31年3月19日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)

 港ヨコハマ 私の風土記 (3)

高校12期 野村 邦男

山手に流れる教会の鐘の音
港の見える公園から西に向って根岸競馬場(現根岸森林公園)まで丘陵尾根に山手通りが続いている。この丘の道筋には多くの学校と教会と異人館があり
異国情緒の景観と文化が漂っている。
フェリス女学院、雙葉学園、横浜インターナショナルスクールなどがあるが、

画像の説明
特にフェリス女学院は古くから馴染みのある学校である。

明治初期1875年にアメリカの伝道者マリー・ギターによって日本の若い
女性たちを啓蒙、育成するために設立された。緑に囲まれた校舎の窓からは
いつもピアノの音が流れていて、近くの高射砲跡の草原は子供たちの遊び場であった。
通っていた市立元街小学校は山手公園の近くにあり、1873年(明治6年)創立の歴史の古い学校であるが、米軍による空爆から免れ戦後すぐから授業が行われていた。
校長の話で「私たちの国は戦争に敗れたため国も家庭も大変貧乏である。
物を沢山作って外国に輸出してお金を稼がなくてはならない。」と、いかにも
港町の学校らしい話が妙に記憶に残っている。
山手通りにはカソリック山手教会、山手聖公会、イエス・キリスト教会など

カソリック山手教会

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多くの教会がある。カソリック山手教会は開港後、最初に創設された教会で
青い尖塔のあるゴッシク様式の聖堂はどこからでも見えるシンボル的な存在である。小学校の帰りに堂内を覗くと、正面にキリスト像があり、ステンド
グラスからの淡い光がつくる雰囲気は、別世界にいるように感じられた。
英国国教会系プロテスタントの山手聖公会の聖堂は元町公園の向かい側にある。大谷石で造られたノルマン様式の建造物で、厳粛な感じがする教会である。

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イギリス館

山手通りに沿って、イギリス館、エリスマン邸、ベーリック邸、イタリア
外交官の家など異人館が点在している。
丘の上のイギリス館(旧英国総領事公邸)からは港全体を見渡すことが出来、イングリッシュガーデン風のバラ園には四季折々色とりどりの花が咲いている。
開港以来、いち早く貿易業務を開始し、一番多く居留したのが英国人であった。
ジャーディン・マセソン商会、モリソン商会、マーティン商会など貿易会社が進出する一方、多くの技術者が来日して鉄道、造船、築港、水道など基幹になる事業の技術指導を行っている。外人墓地の墓標の半数は英国人で、彼等がこの地に根を下ろし横浜の礎を作った証でもある。
1872年(明治5年)に開通した新橋―横浜間の鉄道建設はエドモンド・モレルの技術指導による。モレルは粉骨砕身の働きをしていたが、この異国の地で病没し外人墓地に葬られている。
横浜の港湾施設と都市機能の整備をしたのが建築家チャード・ブラントンである。
大型船が直接接岸できる桟橋の建設、灯台の設置、近代的下水道の施設などを行った。
開港により急速に増加した住民のために衛生的な飲み水が必要となり、技術者ヘンリー・パーマーは相模川の上流から延々40キロの水道管を敷設し我が国初めての近代的な水道システムを造った。                    

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      山手公園

また、英国人は、公園、競馬場、テニスコートなど今までの日本にはない
新しい生活スタイルを植え付けた。山手の公園、学校、教会などに多くのヒマラヤ杉が
見られるが、イギリス人ブルークがインドから持ち帰り植えた種子が大きく育ったものである。

今は静かな異国の雰囲気が漂う山手通りであるが、開港当時はイギリスと
フランスの軍隊がこの山手の一角に駐留して緊迫した時期もあった。
歴史を遡ると19世紀、ヨーロッパ列強はアジアに進出して多くの地域を
植民地化した。イギリスはインドへの侵略と殖民地化、アヘン戦争により清朝を隷属化、香港、ミャンマー、マレーシアを植民地にした。
フランスはベトナム、ラオス、カンボジアを、オランダはインドネシアを、
アメリカはフィリピンを植民地として支配した。
日本は開国以来波乱に満ちた歴史を辿ることになるが、これらの列強によってアジア諸国のように殖民地にされることがなく、近代国家に転換し文明開化の道を進むことが出来たことに改めて感慨を覚える。

元街のパン焼く匂い
1859年(安政6年)の開港に伴い波止場や外国人居留地を造るために、
もともと海辺に住んでいた横浜村の住民が幕府の命令で強制的に移住させられた。
山手の丘陵下と堀川沿いの細長いエリアに移り住んだ人々が外国人向けの
商売を始めたのが元町である。
文明開化の波をいち早く取り入れて、欧米風の衣服、家具、食品などハイカラな商品を自ら作り販売するようになった。
以来、元町は港ヨコハマを代表するファッショナブルな商店街となり、
今では、お洒落な婦人服、紳士服、バッグや靴の革製品、洋家具、装飾品、
洋菓子を扱う店舗と、ベーカリー、カフェなどが建ち並び、全国から
多くの人が訪れショッピングを楽しんでいる。

日本人は長年にわたり米や麦を炊いたご飯を主体とした食生活であった。
欧米人が持ちこんできたパンという食べ物は当時の人々にとってはまったく
異質の新しい食材であり、文明開化の香りがする食べ物であった。
最初は居留地の外国人たちが食べるものとしてイギリス人やフランス人が
自らベーカリー工場をつくりパンを焼いていた。
明治初期、打木彦太郎はイギリス人からパンの製造ノウハウを学び、自家製
自家製酵母を使った独自のパンを開発した。

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元町に開業した「ウチキパン」は日本人にも受け入られる評判の高いベーカリーとなった.
今でもイングランドパンなどに人気があり、焼き上がる時間にはお客が列をなしている。子供の頃、この店の周りにはパンを焼く匂いが漂い何とも美味しそうに感じられたものである。
横浜や神戸という港町から始まったパンは徐々に全国に広がって行ったが、戦前までは一部の日本人の限られた食べ物であった。戦後、占領軍の進駐に伴いアメリカの食スタイルが一気に浸透して、パンはその代表的な食べ物として広く受け入れられた。
またアメリカの援助で始まった学校給食はパン食が中心であったこともあり、子供が成人になるに従いパン食が日常欠かせない食べ物となり、広く普及する要因ともなった。
パンの品種も豊富になり、扱う店舗もベーカリーからスーパー、コンビニに至るまでどこでもいつでも購入できる食べ物となった。
2011年度家計消費調査の一所帯当り購入金額でパンが米を上回る主食アイテムにまで成長し、日本人の食生活がバラエティ豊かになっている。
戦後すぐに父親が市電の元町停留場の近くに千浜屋という食品店を開業し、
小売と業務用卸業を営んでいた。
元町、関内、伊勢崎町、野毛界隈の飲食店に食材を納めていて、学生時代は
オートバイや小型トラックで商品の配達や集金の手伝いをしていた。
元町の代官坂を上る中腹にあるナイトクラブ・クリフサイドに、商品の配達に行くとトランペット、ドラム、ピアノなど演奏する音が聞こえていた。

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クリフサイド

南里文雄をはじめ有名なジャズ演奏家、シンガーなどがステージに立っていて、港の夜の社交場であった。現在もエキゾチックな雰囲気の中、若い人達が生演奏とダンスを楽しんでいる。
関内や伊勢佐木町は洋食店、和食店、居酒屋、スタンドバー、カフェなどいろいろな飲食店が、働く人達の食事や憩いの場として大変賑わっていた。
戦後の復興、朝鮮戦争の特需そして高度経済成長という時代の中で、港も町も働く人々も活気に溢れていたことが懐かしく思い出される。

華僑の人達の落地生根
市立港中学校は中華街の入り口延平門の近くにある。当時の在校生は1クラス50人10組で1学年500人もいた。クラスメートに中国人の生徒もいて、中華街をよく歩き回っていたこともあり、馴染みのある場所である。
かつては中華街の店先には鶏や子豚の丸焼きがぶら下がり、あたりには
中華料理特有の匂いが漂い、路地に入ると小さな料理店がひしめいていた。

中華街2018-10-14

現在では聘珍楼、満珍楼など有名中華料理店が軒を並べ、料理も広東、上海、北京、四川、台湾と幅広く、多彩なメニューを競っている。中華料理店を中心に食材、菓子、雑貨などを扱う店が500店ほどあり、賑やかで楽しい街になっている。
開港にあわせて、欧米人と共に多くの中国人が香港や広東から横浜にやって
きた。当初は欧米人の通訳、給仕、家具職人、日用雑貨、衣料品の商いなどであったが、徐々に料理人も増えて中華料理店も増加した。
日清戦争、関東大震災、日中戦争、太平洋戦争など中国人にとって厳しい事態が続いたたが、彼らの不屈の逞しい生活力によって今日の盛況がある。
明朝や清朝の時代から中国本土を離れて海外で生活する多くの中国人が東南アジア一帯に根づいていて、こうした人々は華僑と呼ばれている。
横浜に根づいた華僑の人達は福建とか福州の出身者が多く、連帯の絆が強くお互いに助け合うネットワークを作っている。商売や仕事をするための資金の融通や情報の共有、人脈の活用など大変根強いものがある。
清朝を倒し中華民国を樹立した孫文は、華僑によってこの地でかくまわれ、支援を受けながら辛亥革命の運動を続けたと云われている。
戦後、中国が中国共産党(毛沢東)の本土と国民党(蒋介石)の台湾に分離した時には中華街の中でも対立が生じたが、政治的抗争を克服したのは街の発展を第一にした華僑の精神であった思われる。

華僑に落地生根という言葉がある。海外に渡り、その地で懸命に働き生涯を
終えても、その魂は根を張って新しい命に繋ぎ事業を継続していくという
精神が込められている。華僑の人で日本国籍を取得した人を華人と呼んでいる。
華人である龐柱深(バンチュウジン)氏は中華街および横浜の発展に貢献したが認められ、戦後初めて勲五等瑞宝章が授与された。天皇陛下から勲章を貰えるとはこれほどの喜びはないと本人が語っていたとのことである。長年人種差別で苦しみ幾多の困難を乗り越え、この横浜の地に根付いた華僑の人々の心情が伝わってくる逸話である。

つづく

掲載日:平成31年3月12日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)

 港ヨコハマ 私の風土記 (2)

高校12期 野村 邦男

三渓園につながる絹の道

三渓園 
  

本牧の海辺と丘陵の間に三渓園がある。18万㎡の広大な敷地に大きな池が
あり、小高い丘の上には三重塔が建っている。京都をはじめ各地から移築した臨春閣、秋聴閣、月華殿など多くの重要文化財の建物が庭園に配置されている。

原三渓

原三渓1)

三渓園は、生糸貿易で財をなした実業家であり、茶人、美術品収集家でもある
原三渓(富太郎)が長年かけて造園したものである。
多くの市民がこの名園を訪れ四季折々の景観を楽しんでいる。鶴翔閣と呼ばれ
る茅葺屋根の風情ある家屋は結婚式、茶会、俳句会などに利用されている。
開港した横浜にはアメリカ、イギリス、フランスなどの貿易商がやって来て
取引を始めると共に、日本の各地からも人々が集まり商売を始めた。
商いの主体は生糸と緑茶であり、横浜から船積みする品物の大部分を
占めていた。生糸貿易が増大する中で原善三郎や茂木惣右衛門などの豪商が
輩出した。原善三郎の婿養子となった三渓は経営能力が優れていて、
富岡製糸場をはじめ多くの製糸工場を経営し、生糸貿易を拡大した。
そして横浜興信銀行(現横浜銀行)の頭取を務め産業経済の基盤をつくり、
港ヨコハマの発展に貢献した。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災による横浜の被害は特に
甚大であった。市街地の建物と港湾施設の大部分が倒壊し、死者2万、
焼失家屋6万の大惨事であった。
三渓は横浜市復興会の会長を務め、私財まで投入して復興に尽力をした。
一方、三渓は美術にも造詣が深く、岡倉天心との親交も厚く前田青邨、
横山大観、下村観山などを援助して彼らの画業を支えた。
三渓園を早い時期から一般市民にも開放するという公共精神の持ち主で
あり、社会貢献にも尽力した人物であった。
こうしたことから原三渓は生前から今日に至るまで多くの市民より
敬慕されている。

開港した横浜から輸出する物品としては生糸が主力であった。江戸時代から
蚕を飼育し繭から生糸を紡ぐ養蚕農家が信州、甲州、上州の各地にあったが、
生糸が欧米諸国に輸出されるようになると生産量が急速に増大した。
生糸の作り方も手繰りから製糸機械の導入により飛躍的に生産性が上がり、
殖産興業の政策のもと、官営富岡製糸場などが操業を始めた。

富岡製糸場
富岡製糸場の全景

広範囲の地域で作られる生糸を集荷、品質管理をし、輸出する業務を担うのが
生糸貿易商であった。生糸の輸出は年々増大し外貨を稼ぐ重要な品目であり、明治から昭和初期まで常に一番輸出金額の多い品目であった。
日本経済発展の原動力であり、日清・日露戦争の軍需費など国家財政を支えたとも云われている。
古代中国から中央アジア、中東、ヨーロッパに至る街道がシルクロードと
呼ばれたように、生糸の生産地から横浜まで運んだ道が絹の道と呼ばれている。
岡谷、諏訪、甲府、秩父などで作られた生糸は八王子に集められ、そこから
馬の背に乗せられ町田を経由して横浜港まで運ばれた。
また、富岡、高崎、前橋など上州の生糸は倉賀野河岸から利根川、江戸川を
船で下り、日本橋に集められ横浜に運ばれた。
その後、生糸の輸送は横浜線や高崎線の開通とともに鉄道輸送に切り替わった。
絹の道が今でも残っている八王子南部の鑓水(やりみず)あたりの道筋を
歩いたことがある。樹木の生い茂る起伏のある細い道で、かつて馬の背に
沢山の生糸を乗せて運んでいた様子が目に浮かぶようであった。
そこには横浜の港と地方の養蚕業、製糸業を結びつけた生糸の歴史があり、
その活況が三渓園まで繋がっているということを物語っている。

進駐軍のカマボコ兵舎
カマボコ兵舎images

焼野原となった横浜

焼け野原となった横浜市街

1945年(昭和20年)5月29日米軍による横浜爆撃は凄まじいもので
あった。B29爆撃機517機から25万発もの焼夷弾が投下され、
横浜の市街地は焼き尽くされ焼け野原となってしまった。
死者2万人、罹災者31万人、焼失家屋8万という壊滅的な被害であった。

3月10日の東京大空襲、8月6日の広島の原爆投下、8月9日の長崎の原爆
投下と同じように膨大な数の一般市民が犠牲となった。
戦争という狂気がこのような大量殺戮と惨劇を惹き起こしてしまうことに、
改めて恐ろしさを覚える。
8月15日の終戦宣言により、満州事変から太平洋戦争に至る15年間の
無謀な戦争が終結することになった。

厚木基地に降り立つマッカーサー
厚木基地に降り立つマッカーサー

8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り
立ち、占領政策が本格的に遂行されることになった。
マッカーサーは横浜ニューグランドホテルに暫らく滞在し、その後GHQ本部(連合国総司令部)は皇居前の第一生命ビルに移る。GHQとは別に占領を
指揮する第八軍司令部は横浜税関ビルに置かれ、10万もの将兵が上陸して
米軍の統治支配が行われることになった。
大桟橋、新港埠頭、倉庫、工場、ホテル、ビル、デパートなど主要な施設と
民間人の家屋、土地、農地が強制的に接収された。
横浜エリアで進駐軍によって接収された港湾施設、土地、建物などは、沖縄を 除く全国の6割にも達し、その後長年にわたり使用されることった。
焼け野原には兵士用のカマボコ兵舎と将校用の住宅が次々と建てられた。
                     
市の中心部には兵隊用の簡易兵舎が沢山建ち並び、山手、根岸、本牧地区には
将校用家族住宅が建てられた。
今では想像も出来ないが、伊勢佐木町の近くに飛行場が建設され、鉄条網の先には戦闘機や輸送機が離着陸していた。
国道1号線から桜木町を経て横須賀にいたる幹線道路16号線には軍用
トラックやジープが頻繁に走り、時には戦車が轟音を響かせて走行していた。
神奈川県内には横須賀海軍基地、厚木航空基地、陸軍キャンプ座間、相模総合補給基地など米軍の重要な基地が多数あった。今でもこれらの基地が残されているという状況が続いている。
1945年の夏を境に、横浜には突然アメリカの文化、住居、食べ物、音楽、
スポーツ、ファッションなどが一挙に流れ込んできた。
戦災を受けた市民たちが粗末なバッラクに住み、食べ物に飢えている状況の中、一方では豊かなアメリカの生活スタイルが存在していた。

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接収校地の一部解除を受けたが米軍のカマボコ兵舎に押しやられた校舎二棟

本牧の丘の上にある母校横浜緑ヶ丘高校のまわりには青々とした広い芝生の庭にライトブルーやオフホワイトの米軍将校の家族住宅が点在して、そこにはまるで別世界の豊かな風景が広がっていた。
戦後の米軍占領という現実が間近にあるにもかかわらず、緑高は解放的で自由闊達な校風と共に明るい青春の雰囲気が醸成されていた。
近くに住むアメリカ人の少年と顔なじみになり、学校で学んだ英語を使いながら英会話の
練習をしていたことが懐かしく思い出される。

本牧米軍ハウスimage06
本牧米軍ハウス

接収された大桟橋、新港埠頭、税関ビルなど主要な港湾施設の返還は
1951年サンフランシスコ講和条約の締結を経て段階的に実施された。
ちなみに米軍の山下公園住宅地が返還されたのは1960年、本牧住宅地は
1982年である。
長年の占領により横浜の復興は他の都市と比べ遅れていたが、接収解除と
返還を契機として本格的な復興が進められることになった。
横浜にとって港湾設備と機能の拡充が不可欠であり、大桟橋、高島埠頭、
新港埠頭の整備と、山下埠頭、本牧埠頭のコンテナヤードの新設などが
急ピッチで進められた。
朝鮮戦争の特需により、三菱重工横浜造船所、日産自動車トラック工場、
日本鋼管鶴見製鉄所などの生産活動が本格化した。
戦争の傷跡がいたる所に残っていたが、徐々に焼け野原が新しい街に生まれ
変わっていく様子を目にした。その後の高度経済成長の波に乗って横浜が
急速に発展し今日の様な国際港湾都市に変貌した姿に隔世の感を覚える。
しかし、戦後70年余りが経過した現在でも、沖縄をはじめとして横須賀、
厚木、横田、北海道、三沢、岩国、佐世保など全国には134ヶ所の米軍基地と軍事施設、1010平方キロメートルもの土地が占有されていることを
あらためて自覚させられる。
進駐軍のカマボコ兵舎を思い出すたびに、全国には戦争と隣り合わせの多くのエリアがまだ残されている現実について考えさせられる。

つづく

掲載日:平成31年3月7日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)

 港ヨコハマ 私の風土記 (1)

                            高校12期 野村 邦男
                            

港ヨコハマの風景
港ヨコハマの風景

港の見える丘公園からは横浜の港湾のほぼ全景を眺めることができる。
中央に大桟橋、新港埠頭、左には港みらいエリアに建つランドマークタワー、
右側に目を移すと湾を跨ぐベイブリッジ、山下埠頭のコンテナヤード、
そして湾の遠方には京浜工業地帯の工場群を一望することができる。
幕末1854年マシュー・ペリー提督が率いる黒船が来航し日米和親条約を
結んだ横浜村は、戸数が100戸にも満たない半農半漁の寒村であった。
現在、港ヨコハマは世界を結ぶ国際港湾都市であり、首都東京に次ぐ人口
370万人の大都市となっている。
横浜が開港して以来160年余りであるが、日本の2千年を超える
歴史の中で、これほど短い年月の間に大きく変貌をとげた地域は他には
ないと思われる。
また、この歳月は1942年生まれの私にとって倍ほどを遡った歴史であり、
身近な風土でもある。
横浜に生まれ育った者の風土記として、港ヨコハマの変貌の歴史を自分の
体験と記憶を重ねながら綴ることにしました。

玉楠の木が見ていた黒船と文明開化
  ハイネの絵 右端が玉楠         開港記念館の玉楠
tamakusu-ヨコハマ上陸 たまくす              
大桟橋に向う道筋に開港資料館があり、その中庭に大きな玉楠(タマクス)の木が艶やかな緑の葉を茂らせている。
1854年(嘉永七年)ペリー艦隊が来航し、日米和親条約が結ばれたのが
武蔵国横浜村である。ペリーに随行した画家ハイネが、浜辺に建てられた
臨時の応接所での徳川幕府の役人とペリー提督及び大勢の将兵が立ち並んで
いる状景を描いている。その絵の右端に水神の祠と玉楠の木が描かれている。
この玉楠の木は黒船来航から、開港、明治維新、文明開化、関東大震災、
太平洋戦争、戦後の復興、現在の港ヨコハマに至る変貌を見てきた
生き証人のような存在である。
小学校でよく歌わされた横浜市歌の作詞は森鴎外であるが、その歌詞に
「むかし思えばとま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ」とあり、
開港前の横浜は何もない寂しい寒村であったことが詠われている。
1858年(安政五年)日米修好通商条約締結に伴い開港が決定し、横浜、
神戸、長崎、新潟、函館の5港が世界に開かれた。
幕府は急遽、横浜村に東波止場と西波止場を建造し、運上所(税関)を設置し
外国人が営業・居住するエリアを派大岡川と堀川で囲み居留地として
整備し、要所に関所が設けられ以後関内と呼ばれるようになった。
海岸通り、日本大通り、馬車道などには欧米の商館が建ち並び、日本各地から
移住してきた商人の店舗、幕府役人の住居などが作られ急速に賑わいのある
町に変貌した。
これまでに見たこともない建築物、家具、服飾、食べ物、乗り物
などが海外から瞬く間に入ってきて、いわゆる文明開化がこの地から広がった。
徳川幕府が崩壊して明治新政府が樹立され、都が京都から遷都され東京が
政治経済の中心となった。そして首都東京に近い横浜が外国との交易、
人々の往来の玄関口として飛躍的に発展することになる。
明治維新後の変革と世界の激動の渦に揉まれながらも国際都市として
成長するが、関東大震災の大規模災害と太平洋戦争末期の空襲によって
壊滅的な被害を受けた。その後、進駐軍の占領時期を経て今日あるような
復興を遂げて港湾都市に発展した。
玉楠の木は災禍によって二度も焼けてしまうという損傷を受けながらも
自力再生して、横浜が劇的に変貌する姿を現在も見続けている。

波止場から世界に船出した若き人々
大桟橋の先端に立って港の状景を眺めていると、開港したばかりのこの波止場
から夢と志を持った若い人達が、世界に向って船出した状景が目に浮かんでくる。
1871年、明治維新を成し遂げた新政府は欧米の政治経済、法律、技術、文化などを修

岩倉使節団 (002)
岩倉使節団

得するために、岩倉具視を全権大使として遣米欧使節団総勢107名をこの波止場から
送り出している。
この使節団の中に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などがいて、帰国後に
新しい近代国家を建設する重要な働きをすることになる。
しかし、こうした歴史上著名な人物達の他に、欧米留学のために随行
する43名もの若い人たちがいた。
明治新政府は国が発展するためには欧米の文化、文明を早く取り入れることが
必要であり、将来の日本の国づくりためには若い人々の教育を重要政策の
根幹に置いていたことが窺える。
更に驚くことにこの留学生達の中に幼い少女たちが含まれていた。
一人は後に津田塾大学を創設する満6歳の津田梅子であり、もう一人は
後年陸軍元帥大山巌の妻となる満11歳の山川捨松である。

津田梅子  渡米直後6歳の梅子

渡米直後6歳の梅子
津田梅子 (2)

津田梅子は佐倉藩士の娘であり、父親のすすめで留学に応募して随行員となる。
6歳という幼い女児が、言葉も生活様式も風習もまったくわからない異国の
地に親元を離れて行くということは大変な覚悟が必要であったと思われる。
不安な気持になったりホームシックにもかかったりしたことが想像される。
ワシントンの日本弁務館書記のチャールズ・ランマン夫妻に預けられ、
その地で11年間初等学校と女学校に通い知識と教養を身につける。
17歳で帰国し、伊藤博文の英語指導や華族女学校の英語教師などをしている。
その後再度渡米してフィラデルフィアのカレッジで英語、ラテン語、フランス語を修得し、英文学、生物学、自然科学、心理学、芸術など幅広く学んでいる。
再び日本に戻った梅子は、封建的な風習に囚われている日本の女子の啓蒙と
育成のために生涯かけて尽力する。
女子英学塾(後の津田塾大学)を創立して華族・平民の別のない教育を行い、留学時の友人大山捨松、アリス・ベーコンの協力のもと自由で進歩的な女子
教育を実践した。津田梅子は恵まれない女学生を自宅に預かるとか、奨学金
制度を作り募金活動をするなど献身的な真の教育者であった。

山川捨松 後に結婚する大山巌

大山巌 日露戦争の満州
山川捨松

山川捨松は会津藩家老の娘で八歳の時に戊辰戦争が勃発、子供ながら会津城に籠城して決死の戦いの一員でもあった。会津の敗戦により家族ともども苦難の生活を送っていたが、聡明で向学心の強い11歳の少女は官費留学に応募する。
捨松とは奇妙な名前であるが、異国に旅立つ娘を案じた母親が「さき」という名を改名したようである。一度捨てたと思って帰国を待つという思いが「捨松」という名前に込められているとのこと。
コネチカット州のベーコン牧師宅に寄宿して、ヴァッサー女子大学を優秀な
成績で卒業している。英語、独語、仏語をマスターし、英文学、生物学、
看護学、国際政治学などを学んでいる。帰国後、会津城攻略の先頭に立って
いた薩摩藩士大山巌と結婚する。大山巌は日清・日露戦争で参謀総長や満州軍総司令官として勝利に導く大きな貢献を果した人物である。
捨松はその知性と教養によって、大山巌と共に列強の外交官たちとの親交を
広げる役割を果たしている。また、津田梅子の支援者として女子教育に尽力し、
日本赤十字社の活動にも熱心に取組んだ。
明治という時代は、戊辰戦争で敗れた賊軍の藩士の子女であっても官費で
アメリカ留学を許し、若い女子にも先進的な文化文明を吸収する機会を与えている。また、かつて砲火を交えた敵味方の男女が結婚するという恩讐を
超えた寛大な精神が宿っていたことに感銘する。

高橋是清

高橋是清

この波止場から船出した人物に高橋是清がいる。是清は幕府御用絵師の庶子
として生まれ、仙台藩の江戸在勤の足軽の家に里子として出された。
十二歳の時に藩命により横浜へ洋学修行に行き、3年ほど開港場のアレキサンダー・シャンドという銀行家の店舗兼家屋に住み込み、掃除や給仕をしながら英語や実務を学んだ。1867年(慶応三年)大政奉還という激動の年、
15歳の是清は官費でアメリカの政治経済文化を学ぶ為に、コロラド号に乗り出港した。幕末から明治の初期、足軽の子供でも勉学の機会が与えられ、
海外に雄飛することが許されるという、大らかで進取に富んだ時代の風が
感じられる。
帰国後、共立学校(現開成高校)の校長となり、教え子に俳人の正岡子規、
日本海開戦の参謀秋山真之がいる。まさに「坂の上の雲」に登場する人物たちである。日露戦争で戦費が底をついていたため、日銀副総裁として英国に
向かい外債を公募して軍費を調達した。これによって何とかロシアに勝利することができた一つの要因と云われている。
その後、是清は日本銀行総裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任し、特に財政金融
政策に精通して歴代内閣の大蔵大臣を6度も勤め日本経済の難しい舵取りに
重要な役割を果たした。しかし、軍事費拡大に反対する方針を堅持したため、1936年(昭和11年)二・二六事件の際に凶弾に倒れた。
これを契機に日本は歯止めを失い、日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、
悲惨な結末を迎えることになった。
横浜から船出した高橋是清は波乱万丈の生涯であったが、軍部の跋扈に抵抗
した信念の人であった。

岡倉天心

岡倉天心(1)

また、この波止場から船出した人物に岡倉天心がいる。
大桟橋の近くに開港記念会館があるが、ここはかつて生糸の取引所があった
場所であり、岡倉天心生誕の地でもある。
天心は開港して間がない1863年に生まれているのでハマっ子の元祖と言うことができる。父親覚右衛門は福井藩士で藩命により、この地で生糸を扱う
貿易商店「石川屋」の責任者をしていた。文明開化の時代に先駆けて、天心は
幼少時より英語を身につけ欧米の文化に慣れ親しんでいたことになる。
東京開成所(現東京大学)で政治学、理財学を学び、講師のアーネスト・
フェノロサに師事し日本美術に開眼する。
1886年横浜から船出した23歳の天心は、フェノロサと共に欧米美術を
見て回る中で日本美術の独自性と特長を深く認識する。
帰国後、東京美術学校(現東京藝術大学)を開校し初代校長となり、横山大観、下村観山、菱田春草など日本美術界を代表する英才を育成している。
また、ボストン美術館中国・日本美術部長を務め、英語版「茶の本」「日本の
覚醒」などを通して広く世界に茶の精神や美術の真髄を伝えている。   
岡倉天心は日本美術の価値を国内外の人々に知らしめ啓蒙する伝道師であった。

つづく

掲載日:平成31年3月4日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ(高15期)

 四季に学ぶ

                       高校12期  野村 邦男

画像の説明

春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さえてすずしかりけり  
     
曹洞宗の開祖道元禅師の和歌に日本の四季が簡潔明瞭に詠まれている。
日本列島は南と北の地域によって差異はあるが概ね三か月ごとに春、夏、秋、冬の季節が
めぐってくる。四方を海に囲まれた国土には、常緑樹・落葉樹が織り成す森林、田んぼや
畑が広がる田園、山から湧き出る水量豊かな河川が無数にある。
そして四季がめぐることにより気候に寒暖があり、太陽の光と熱、雨、雪、露、霜などが
植物を育て、動物が生きることができる環境がつくられている。そして世界で最も多様な
生物が生息する豊かな風土をとなっている。
日本人は古代より四季に応じて農耕や漁業を行い、四季を更に細かく分けて二十四節気
七十二候の暦にそった生活、行事、祭事などを行ってきた。万葉集をはじめ和歌は季節の
草花や風物を主題として詠み継がれ、俳句は季節の言葉を季語として、独自の短詩の文芸
世界をつくりだしてきた。季節の移り変わりに応じた人々の自然観、生活感が歳時記としてまとめられ、5000を超える季語が収録され連綿と現代に受け継がれている。

拙宅の近くの里山には雑木林、竹林、野原、畑、小川があるので、季節の移り変わりを
身近に見たり感じたりすることができる。
あらゆる植物と動物が気温や日照の変化に応じて生命活動を行っていることがよくわかる。春には桜、夏には向日葵、秋には萩、冬には水仙が花をつける。春になると鶯が鳴き始め、初夏には燕や時鳥が飛びまわり、秋には鵙が梢の上で高鳴きし、冬は鴨が水辺に遊ぶ。蝶、蜂、蝉、甲虫、蜻蛉、蟋蟀などが季節と共に姿を現し小さな命を謳歌し、いつの間にか姿を消していく。こうした豊かな自然環境を護りたいという思いから、里山保全のボランティア活動を続けている。
この里山で四季折々に小学生の野外授業をしていると、児童たちの五感の働きに感心することが多い。児童たちは芽吹き、若葉青葉、紅葉、落葉と変化する木々の状景を
印象深く記憶に刻んでいる。鳥や虫の鳴き声にも敏感に耳を傾け、カタツムリ、シャクトリムシ、トカゲなどもすばやく見つける。
里山の自然環境の中にいると児童たちの興味と素朴な疑問は尽きることがない。
雑木林の緑色の木の葉が秋になるとどうして赤色や黄色に変わるのだろうか。
ツバメは何千キロも離れた遠い国からなぜ海を渡ってくることができるのだろうか。
気持の悪い毛虫や青虫がどうして綺麗なチョウチョに変身するのだろうか。
子供たちに刺激を受けて、私たち大人たちも、季節の推移と動植物の命の営みに対して
「なぜ」、「どうして」という好奇心と探究心をもつことが大切であると気付かされる。
一方、近年地球規模で気候が大きく狂いだし、日本特有の四季が暦の通りにならなく
なっている。これまでに経験したことが無いような猛暑、大型台風、集中豪雨、竜巻などが次々に襲い、地震も各地で発生して大きな災害が続発している。産業革命以降の化石燃料の大量消費による二酸化炭素の放出が地球温暖化を引き起こし、気流や海流に異常をきたし気候が狂う原因となっている。
日本においても戦後の急激な工業化と都市化の進展によって自然破壊が急速に進み、縄文・弥生時代以来数千年にわたり続いてきた緑豊かな自然環境が大幅に悪化している。
二十一世紀後半には自然の猛威によって日本列島に住む人間の生活環境が大きく変わり
危機的な状況になることが予測されている。
現代の物質文明にどっぷりと浸かった現代人は、快適性や利便性のある生活を際限なく
追い求め、結果として自ら自然破壊を進めている。現代に生きる人間は、自然界の警告に
謙虚に耳を傾け、自然環境を護り保全する心構えが必要であり、ライフスタイルを抑制の
効いたものにすることが必要となっている。

自然に親しみ四季に学ぶことにより、日本古来の豊かな自然環境と四季の正常な循環を
取り戻し、自然の恵みを享受することができるようにしたいものである。
一市井として微々たるものではあるが、四季に応じて畑でいろいろな野菜を作り自給自足し、電力は太陽光や風力などの再生可能な自然エネルギー事業者に契約を切り替え、自家用車はやめてできるだけ徒歩と公共交通を利用するように努めている。
季節の野菜、果物、魚介と少々のお酒をいただき、暑さ寒さを凌ぐ程度の衣服を着て、時には近くの里山で花見や月見を楽しむというような素朴な生活を送りたいと愚考している。
そして四季の折々に俳句という文芸世界で、句友たちと共に学び共に遊ぶことができれば
ありがたいと思っている。  

掲載日 平成31年2月24日
記事作成者 野村邦男
掲載責任者 深海なるみ(高15期)

平成30年度緑高12期同期会開催について

画像の説明

平成30年の12期同期会は好天に恵まれた10月12日、横浜中華街の「重慶茶樓本店」にて37名(男子:26名、女子: 11名)が参加し開かれました。会は菅原の司会・進行のもと、峯嶋さんの「開会挨拶」で始まり、石井さんが「母校と牧陵会」の近況報告を行って、11月11日の「緑のフェスティバル」には皆んなで参加しようと呼びかけました。「物故者への哀悼の献杯」に続いて「開宴の乾杯」も藤田さんが担当しました。
 開宴し、卒業以来、同期のゴルフやハイキングの中心的役割を担い、ここ数年は、民謡の稽古に余念のなかった桃井さん、酸素ボンベ携帯での出席でしたが、この春に突然、発症した呼吸器系の病いの背景を説明してくれました。峯嶋さんに続き、同期で2人目の「瑞宝中綬章」を昨年受章した入戸野さんは受章の感想と福島からハマの住民に戻った近況をスピーチ。岸俊輔さんがシルバー向け川柳調の歌を得意のウクレレの調べにのせて披露、会場を埋めた後期高齢者の笑いを誘って大いに楽しませてくれました。
 満を持して最後に登場の松崎(章)さん,この日の為に練習を重ねたカントリーソング、「ジャンバラヤ」を熱唱し、後半のパートは岸さんとのデュエット、これが見事にハモッておりました。
「フリートーク…ちょっとお時間拝借」 のコーナーでは 最近、奥様を亡くされた心境を野田さんが、昨年の会で手を取り合って散歩する奥様の病いを語った萩本さん、入院されていた奥様の存在の有難さを語った小宮さんら、お三方から近況を伺いました。(尚、小宮さんの奥様は同期会の二ヶ月後に亡くなったとのことです。合掌。)
 中島さん音頭による「中締め」のあと、全員起立し、江川さんのリードで力強く校歌を歌い、何はともあれ、「クラス会それぞれ持病の専門医」たちの 喜寿の集いは無事お開きとなりました。
「写真撮影とプリント」を 藤田さん、今年も有難うございました。
 最後になりましたが、今年から喜寿・米寿の同期会にも牧陵会が追加支援金を支給して下さる由、石井参与から報告がありました。 誠に有難く、同期一同、謹んで牧陵会役員会に感謝申し上げます。

集合写真ダウンロード⇒

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平成30年10月吉日
高校12期卒業同期会 
報告者 菅原 裕明
掲載責任者:向井信一(高21期)

高齢者の愉しみ

                           ( 高12  峯嶋 利之 )
 高校12期はついに後期高齢者の仲間入りをした。いつかこんな日もくるかとは覚悟していたが、いざその時がきてみると昨日につづく今日で何かが急に変わるわけでもない。とはいえ、高校卒業から半世紀をこえた75歳の心身の衰えは隠しようがない。ところが高校時代の集まりに顔をだすと多感な思春期やストレス漬けの受験時代がすぐによみがえり青春真っただなかの若い日の自分にたちどころに還っていけるから不思議である。
 高校12期は同期会を毎年秋に開催している。12にちなんで開催日は陽気のよい10月の「12日」に固定している。この日を楽しみに50人をこえる連中が中華街にあつまってくる。会場では楽器を鳴らしたり、渋いのどを披露したりで終いにはワイワイ、ガヤガヤの賑やかさのうちにお開きとなる。幹事から毎年他界者の報告を聴くときはさすがに寂しい思いになる。最近も元気でクラチャンにもなるほどのゴルフの名手があっという間に逝ってしまい驚いている。
 それでも今年の5,6月にはそれなりにいくつかの愉しみがあった。6月はじめには恒例の牧陵会の総会があった。毎年一度の総会にはできるだけ顔を出すことにしている。元気な姿の諸先輩にお目にかかると自分もまだまだ頑張れるはずだと励まされる。とくに背筋がのびた姿勢のよい先輩はよい手本となっている。夕方の懇親会にもひきつづき参加した。今回は高校時代の受験勉強のお手本として遠くからながめるだけだった一年上級生と思いがけなく親しく話す機会をえた。50年余の時をへだてたあとのほぼ初対面にちかい出会いではあったがうちとけて屈託なく受験秘話などの昔話に話がはずんだのはやはり同窓会の大きな愉しみであった。また。この席では初代となる新任の女性高校長にもお目にかかれた。人工減少社会でこの国の成長を支えるには女性の活躍に期待するしかない。最近当校は女子高生に人気が高いときいており適任者をトップにむかえてさらに新機軸がうちだされるものと愉しみに待ちたいと思う。

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 また、最近では5月に村上春樹の新刊「騎士団長殺し(上・下)」(新潮社)、6月には亀山郁夫(東京外国語大学長)による新訳「カラマーゾフの兄弟(1,2,3,4,5エピローグ別巻)」(光文社文庫)を読んだ。いずれも面白く長編が苦にならなかった。
「騎士団長殺し」はウイーン留学時代にナチス高官暗殺未遂事件にかかわった日本人画家にからむ主人公の物語であり、

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道元禅師

「カラマーゾフの兄弟」は父親殺しを中心テーマに物語が展開する。両著とも物騒なテーマではあるがサスペンス風の展開についつい引き込まれて読み進んでしまった。これはもちろん両作家の奥深い人間観察に裏うちされた卓越したストーリーテラーとしての筋たての面白さに負うところが大きい。また、亀山教授の新訳は読みにくかった昔の翻訳とはちがい「いま、息をしている言葉」に心がけられており、これも読みやすく読書量をはかどらせる理由である。目もからだも衰えてきているなかひさしぶりに分厚い